静かな時が流れる。
ちらりと様子を確認するも、ラフェルは一向に目を覚ます気配はない。
「大人しくしてろと言った筈なのに…」
安堵にも似た溜息とともに呟く。
しかし、とセツは言葉を続けて黙り込んだ。
予定が狂ったにも程がある。
あの男――ザンギィルは酷く面倒そうだ、余計な事にも首を突っ込んできそうな気がして大きな溜息を吐き出した。
ふと。
さわり、とした流れが背後で起こる。空気が僅かに動いたのだと認識してから、クスリ、と肩を竦めた。
「お帰りなさいませ」
そう告げる声は低い男のもの。どこまでも優しい雰囲気を纏い、やわらかに告げられたもの。
「やはり、ごまかせなかったか」
降参したようにセツが苦笑した。
「前線は退きましたが、引退した訳ではありません。―――無事の帰還、嬉しく思います。我が月の君、カルデナル様」
その場で片膝を付き頭を深く垂れるその様に、諦めにも似た息を吐き出してからセツはゆっくりと振り返った。
「サディアウィ。私は私としてではなく、オレとしてここにいる。それに誰が聞き耳を立てているかわからない、
そう畏まった礼は勘弁してくれ」
「承りました、月の騎士」
間髪入れずに返ったにこやかな声、ゆっくりと上げられた顔に浮かぶのも人好きする柔和な笑みだ。
「………まぁ、仕方ない」
にこにこと微笑む姿に、セツは小さく肩を落とす。
「しかし、サディアウィ。世代交代の理由がわからないな。見たところ何も問題なさそうだが?」
「必要にかられました。今のこの国では、表に立っていては出来ない事が多すぎますから。
いずれ継ぐのだから少しくらい早くても構わないとも思いました」
「少々問題がありそうな気がするが?」
「まだまだ自覚が足りないのは重々承知していますが、経験を積むべき若人ですから。
今回は息子にとってはこの上なく良い経験になったと思いますし、今後に期待していますよ」
「息子すら隠れ蓑にする、か…」
呆れ返ったように上がった声に、サディアウィは肩を竦めて返す。
「尤も、オレも人の事は言えないか。セツを名乗っているしな」
自嘲気味に呟いた科白にぱちくりとサディアウィが目を瞬く。
「月の騎士セツ、ですか…。それはそれは。伝記のような、神話の時代が今ここに甦ったと言ってもよさそうですね」
「息子の方は名前を聞いても無反応だったが」
「名前と顔を覚えるのが苦手なもので」
「よくそれで代替わりする気になったな…」
半身引いたセツに曖昧な笑みを返し、
「して、月の騎士セツ様。こちらへ立ち寄られたのは、神殿へ向かわれるためですか?」
「…まぁ、そんな所だ。余計な事があって目立ったからな、ヘタに目を付けられても困るから明日の早朝には出発するつもりだ」
「わかりました。見送りはない方がよいでしょうね…。道中の無事をお祈り申し上げます。それと、何か伝言はございますか?」
にこにこと告げられた最後の科白に、セツの頭が俄かに俯き加減になる。
「ご心配なさらなくとも、盗聴の恐れは皆無――」
「会いに行くと。ウォルタイラーの爺が健在とは予想外だが」
溜息がちな声で告げてから、がっくりと項垂れるようにして頭を振った。
「彼は恐らく、私より長生きすると思いますよ」
「そうか。尤もあの状態では早々命も狙えないだろうからな。しかし通信手段は抑えられただろう? どんな裏技だ」
「息子にはまだ伝えておりませんが、ここと月の神殿のあり方を考えればアナタには想像が付くでしょう」
「………なるほど。代替わりはそのせいか」
呆れ返ったようなセツの声に、サディアウィは深い笑みを浮かべる。
「何を企んでいるんだ?」
「企むなどと人聞きの悪い事をおっしゃらないで下さい。
人生の先輩である長の持て余している暇を潰すお手伝いをしているだけです」
「あの爺の暇つぶしというと、少なくとも、堂々と公言できるないようではないだろうな」
渇いた笑いを交えて告げた科白に、サディアウィは肩を竦めて返す。
「ところでセツ様。そちらの方は?」
「………ああ、連れだ。正確にはオレではなく、イリューゼの、だがな」
「日の君? ―――まさか、行動を共にされていたのですか? お2人が揃えば否応なしに目立ってしまうでしょう、
よくこれまで見つかりませんでしたね」
「国境付近でたまたま遭遇しただけだ。ラージェイを探してる途中でな」
自嘲気味なセツにサディアウィの顔から笑みが消え表情がなくなった。
「仕留められましたか?」
「偽物が何人もいて困ったが、つい先日な。―――代償に、ヤナエリの森がなくなったようだが」
「…は?」
「第一の目的は達した。後は国を取り戻し、この国の歴史をあるべき姿へと戻すだけだ」
サディアウィの表情が俄かに曇る。
「ご意志が変わる事はなかったのですね」
「慣例どおりだ。………不満か?」
「不満、ではなく、不安、ですね」
「心配するな。この混乱はすぐに止む。後々の復興に手をやくだろうが、イリューゼなら大丈夫だろう。
あの子は王になるために生まれたのだから。誰よりも美しく気高く、そして優しい女王にな」
「セツ様もお手伝いなされるのですよね?」
「オレについても慣例どおりだ。何の変更もない」
「セツ様、今はそのような――」
「だからこそ、だ。サディアウィ、この国の状態を考えればこそ、“私”はいない方がよいのだ」
きっぱりと断言した強い声にサディアウィは言いかけた言葉を飲み込み、唇をきつく噛み締める。
「勿論、ミュートリアを追い出すまでどうこうするつもりはないさ」
肩を竦める姿に表情を少しだけ緩ませて、軽く息を吐き出す。
「昔から、アナタ様はこうと決めたらテコでも動かない方でしたね。私にも、何かお手伝いできるような事があれば――」
そこで言葉を止めると視線を扉へと向ける。
「――時間ぎれのようですね」
「今代の月の神官には内密にするつもりか」
「ご自身で名乗られないものを、私如きが話ていい筈がありません。―――傍にいれば気付きそうなものですが、
月の騎士を知らずに育ったので仕方ありませんね。濃密な気配すら、騎士特有のものと思っているようですから」
「………そんなにわかりやすいか?」
「他者にはわかりません。あなたはその頂点に立つもの、我々はそれに平伏し仕えるもの、それが唯一の違いであり、
絶対のものであり、我々が同類だという何よりの証拠です」
「言いたくないが、オレが月の騎士だというのも気付いてなかったんだがな…」
サディアウィと同じように扉へと躰ごと向き直りながらポツリと呟く。
「………面目もありません」
苦虫を噛み潰したかのような表情でサディアウィは声を絞り出した。
出来の悪い息子以前の問題だと、哀しい事実に気付いてしまったらしい。
「サディアウィ、来るぞ」
落ち込む姿に苦笑交じりの声をかける。
「―――はい、失礼いたします」
落ちた声のまま深い一礼をしてきびすを返す。
遠ざかる気配を背に感じながらも、セツは振り返ろうとはしなかった。
視線の先の扉が開かれるのと気配が完全に消えるのとはほぼ同時で、
そこに現れた姿にセツが思わず視線を逸らしたのは仕方がなかったのかもしれない。
右腕に大きい籠を下げ、その手に持つのは山積みの布。
左腕に布袋を2つ下げ、小脇に抱えているのはどこをどうみても―――犬だ。
「何だそれは」
「宿泊セット。飯の時間はまだだから後からになるが――」
「そうじゃない。その犬は何だと聞いている」
「番犬」
「必要ない」
「あんたにはいらんだろうけど、そっちの気絶してる方にはいるだろ。こいつ訓練受けてる救護犬だから」
無傷なんだが、とセツは思ったが言葉を飲み込んだ。
ザンギィルには言うだけ無駄なのだと、やっと悟ったらしい。
「まぁ、影響受けてないみたいだからいらないとは思うんだが………。一応精霊術施行のあおりで気絶してるんだし、念のためな」
「確かに。月の神官ともあろうものが一般人あいてに精霊術の大技くらわしたあげく
巻き添えくった一般人に後遺症でも残るような事になったら大変だからな」
尖った声でワンブレスで言い切ったセツに、言葉を詰まらせて視線を泳がせる。
「気にするな。完全に塞いだからそっちの影響など全く受けてない。むしろオレが使ったものの反動で意識が飛んだだけだ」
あっさりと何事でもないかのように軽く言い切った。
「………知り合い、なんだよな?」
「一応、旅の同行者だ」
「………仲間ってやつだよな?」
「日の皇女の護衛を務めたという程度で個人的に仲が良い訳じゃない」
「………正体隠してたのばらしてまで助けたのに、冷たいな」
「自分が危なかったからな」
犬をおろし他の荷物を空いているベットの上に置きながら、ザンギィルは必死に頭を回転させる。
仮にも月の騎士。主が第一だろうが他人を見捨てたり見殺しにしたりするようなヤツにはなれないだろうし、
何よりあの状況で自ら名乗ってまでも助け様としたんだから、そこまでする理由は必ずある筈だ。
何か特殊な身分、とか。
そんな事を考えながらちらりとラフェルへと視線を送ったザンギィルに、
「深読みは必要ない。そのままの意味だ」
あっさりと飛んで来た科白に思考が停止し、次いで、疑問が浮かぶ。
「―――だったら、自分だけ助かってこいつ見捨ててもよかったんじゃ?」
「あの状況でそれをやったらオレが怪しまれるだろう。誰が見てるかわからない状況で、例え一般人にそれが理解できなくとも、
こいつが庇っただけで防げるようなヤツじゃなかったんだ。共倒れか、そろって助かるか、その二択しか有りえない」
「あぁ…、なるほど。それで、皇女とはどこで待ち合わせなんだ?」
「お前に答える必要はない」
ずっぱりと切り捨てたセツに、ザンギィルの頬が引き攣った。
「一応、オレは月のし――」
「オレに気付けないようなヤツに、答える謂れはない」
科白を遮った淡々とした言葉にザンギィルは押し黙る。
確かに月の騎士と気付かず喧嘩を売ったのは自分で、全面的に非があるのもわかる。
それでも月の神官として、だけではなく、この国――ユゼ――のイチ国民として、
皇女の無事を知りたいと、役に立ちたいと思うのは悪い事なのかと思わずにいられない。
「いい訳をするつもりはないが――」
「別にお前が月の神官失格と言ってる訳じゃない。相手が誰であっても、そう、例えイリューゼ皇女であったとしても、
その所在は口にしない事、これは皇女との約束だ。絶対のな。だから言わないだけだ」
毅然と告げられた科白に強張っていたザンギィルの顔が困惑へと変わった。
ただ2人生き残った双子の皇女、だというのにその片割れにさえ行方を知らせるのを由としないのはどういう事なのだと。
互いに互いの無事を確認したい、それが本音だろう。
この国を取り戻すために動いているというのなら尚更、2人が協力した方がいいのではないかと思う。
それなのに。
「―――ティアーゼ様は、気難しいのか?」
何を思ったのか、そんな科白をザンギィルは口にした。
知らぬ事とはいえ本人を前にして。
「………いや。単に慎重なだけだ。それから信用しているヤツとそうでないヤツへの態度がまるっきり違うだけだな」
「そ、そうか…。それなら、オレでも大丈夫か。何か役に立てる事が少なからずあると思うんだが、オレも――」
「お前、これまでに会った事は?」
「…ない」
再び科白を遮られてされた質問に、憮然と答える。
返った答えにセツはこれみよがしに肩を竦めると、
「それなら、例え月の神官だろうと見知らぬ他人と何ら変わりないから、何の期待もしない方がいいだろうな」
本人だけに本音は隠しているが、拒絶の意思だけ遠まわしに本気で告げる。
「…………そうか」
本気で残念そうな声で、ザンギィルは力なく呟いた。
「残念だがな」
一応のフォローを入れる。
「いや、いいんだ。状況が状況だけに仕方ない。そもそもオレは顔も知らんからなぁ」
苦笑して返してから、右腕にさげていた籠を指差し、
「着替えはここに入ってる。食事は…夜分でいいんだよな? 昼は喰ったか?」
「済ませた」
「そっか。なら、食事は皆一緒に取る事になってるがそっちのが起きるかどうかわからないから、
時間になったらここへ持って来させるようにする。とはいえ、日暮れにあわせてだからまだ当分かかるが」
「いや、助かるよ」
「それまで何してる? 暇じゃねぇ?」
「気絶して運び込まれた身だぞ? 動き回ってどうする。ここで大人しくしてるさ」
「あぁ…。そういやそーだったな」
「オレ達のことは気にしなくていいから、本来の役職の役目に戻れ」
「あ、ああ…、そうするわ。んじゃな」
すっかり毒気をぬかれてしまったのか、最初に体面した頃の覇気もずうずうしさも消え失せて
大人しくなった姿は――失礼とは思うが――微妙な不気味さを感じずにはいられなかった。
扉が閉じられてから、本気で、疲れた息を吐き出してセツはベットに倒れ込んだ。
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