「その瞳を、隠すためか?」
「何で…それを……?」
茫然と、セツは呟いた。これまでに聞いた事のない、弱々しく小さい疑問の声。
それを耳にしたラフェルは急に、掴んでいたセツの腕を離した。躰の支えを失ってそのまま床へと尻餅を突いて落下する。
それでもセツは安堵の息を漏らした。
「つッ…」
今になって痛み出した右腕をそっと視界へと持ってくると、そこにはラフェルの手の跡がくっきりと赤くなって残っていた。
それを見て、これならば痛いはずだと頷く。
「ラフェル。一体何のつもりだ?」
変色した部分に左手で回復魔法を掛けながら立ち上がるとラフェルを睨むようにして見上げる。
ラフェルは答えなかった。
その代わりに、ふいっとセツを見下ろしてから右手を伸ばして見せる。
今度は何が始まるのかと眉を顰めて睨み続けていたセツだったが、急に半歩後退した。
しかし、ラフェルの右手はすぐに追いついた。
くいっ。
額に触れるようにして軽く、セツの前髪を上げる。
「なっ…」
驚きの声と表情。
そこにあったのは、知っている顔だ。
確かに、その面影を残す者。
「なんっ…で、セツ…お前は。その、顔は…?」
驚愕のまま、力なくラフェルの手が滑り落ちた。
再び、その顔は髪の下へと隠れる。
だが。
「何で…。どうして、今まで黙って…?」
「別に、他人に言うような事じゃない」
顔を背けてきっぱりと口にする。
「他人って…、リューはどうなんだよ?」
茫然として呟かれる声に、セツは一瞬だけ反応して見せてからいつものように黙り込んだ。
「答えろよ! …ティアーゼッ!」
その名を呼んでも、セツの反応は皆無。
「ティアー…」
「オレの名は、セツだ!」
逸らしていた顔をラフェルへと戻して感情を剥き出しにして叫ぶ姿に、若干気圧されて口にしようとしていた言葉を飲み込む。
「それ以外の、誰でもない」
俯いて、付け足す。
「じゃあ…ティアーゼはどうなるんだ? 本人が見捨てて…、どうなるんだよッ? そんなの…ないだろ…」
今にも泣き出しそうに震えた声。
「セツ! ティアーゼは、それで、いいのかよ! そんなの、ただ……逃げてるだけだろう…?」
「―――そうだ」
暫しの間を置いて、小さく頷いた。
「逃げているだけだ。…それが悪いか? 悪い事なのか?」
呪文のように呟かれた科白は俯いた姿のままだ、顔を上げようともしない。
「お前には…決して、わからない」
付け加えてから、ラフェルに背を向けた。
「わかるわけ、ねぇだろ。お前はオレじゃ、ないんだからな…」
その背に呟きかける、それから視線を鋭くさせて睨み付けた。
「だがな、これだけは言える。今のお前に、ユゼの双子たる、ティアーゼを名乗る資格はない」
語尾を強めて淡々と口にする科白に、セツの小さな笑いが返った。
「だから何だ? オレは、セツ。ティアーゼだなどと名乗るつもりは毛頭ない。―――ティアーゼは、
10年前のあの日、死んだんだからな」
はっきりとした口調でそう言い切った。
他人の前で初めて、きっぱりとティアーゼの名を捨てた。
「何で…、何でそんなに変わったんだよ…。何でティアーゼを否定するんだよ」
駄々児のような口調に肩越しに振り返ってみせたセツは哀しげな声で口を開いた。
「その名は…嫌な事を、思い出させる。話した所でお前にはわからないし、わかるわけがない。
大切な人達だった…。それなのに。オレがティアーゼだったから…そのために、死んでしまった。みんな…」
そこで、言葉が途切れた。
僅かに嗚咽が漏れている、躰も小刻みに震えていた。
「そんなの、わかるわけないだろ…。オレはお前じゃないんだからな…」
「だったら、ほっといてくれ…。もう十分だろう?」
「それは無理な相談だ」
俄かに懇願するかのような声音とそれに間髪いれずに返った反抗の意思に、弾かれるように振り向くとラフェルを睨んだ。
「―――セツ、お前…言ったよな? 大切な人が死んだって、ティアーゼのために。
確かにさ、今までのオレは平和に育ったし…大切な人の死って言ったら母さんぐらいだったからな。
お前の気持ちなんかわかるわけねぇよ」
「だったら…」
「でもな、今は違う」
「は?」
「オレが、家を出たのは知ってるよな? 4年前の話だ。家を捨てて…ずっと、捜してたんだぞ…。ティアーゼを」
「え…?」
「それなのにさ…やっと見つけて、まだ…生きてるのに、死んだって、そう言うんだ。お前は…?」
驚きを隠し切れないセツの目の前で、静かにその頬を一雫の光が流れ落ちる。
「死んだって言ったよな? セツは、オレの目の前でティアーゼを殺したんだ…。
それだけじゃない…、オレの4年間だって殺したんだ! お前がッ!」
悲痛な叫びにセツの躰がビクリと震えた。
「オレは…そのために生きてたんだ。どうするとかは別にして、ずっと…それだけのために…」
すっかり生気を失い涙に濡れた顔でそう告げると、微かな笑みをセツへと向ける。
「お前は…本当に。本当に、それでいいんだな? だったらオレは…」
そこで言葉を止めて瞼を伏せる。
それから意を決したかのようにしっかりとセツを見据え、
「顔、もう1度見せてくれないか? これで最後でいいからさ…」
そう、願った。
その態度の豹変振りに些か動揺しながらも、最後と口にしたのでセツは小さく頷いた。
それから、自分の手で前髪を上げる。額にはいつものバンダナ、
ユゼの双子たる印を見る事は叶わないが困惑にも似たその表情はしっかりとラフェルにも見る事が出来た。
「どうも」
短くそう言うと、満足そうに微笑んだ。
それから、その笑みを浮かべたままで床に落ちたセツの剣を手にし鞘から一気に引き抜いた。
「なっ…」
セツの驚きの声が上がるのとほぼ同時にそれは行われた。
ラフェルは自らの胸に、その細身の長剣を深々と突き刺したのだった。
剣は、ラフェルの躰をいとも容易く貫通した。
背から床へと向かうようにして飛び出した剣の刃を通って、真っ赤な血液が流れ出る。
「何を、やってるんだ……お前」
青褪めた顔で茫然と呟いた。
「何…か。お前…と、同じ事、だろ?」
笑みを浮かべたまま呟くと、ぐらりと躰が揺らいだ。
後方へ倒れそうになるのを慌てて両腕を伸ばして抱き止めるが、きちんと支える事が出来ずにその場にへたり込んだ。
膝に軽い痛みが走ったがそれを無視して剣の柄を握るとラフェルが小さく呻き、
瞬間だけ躊躇ってセツはそれを一気に引き抜いて投げ捨てるとすぐさま治療魔法を掛ける。
「何を考えてるんだ、お前は!」
横たわるラフェルを見下ろすその顔は前髪に邪魔される事なくはっきりとその目にする事が出来た。
青褪めて、心配そうに、そして不安そうに自分を見つめているセツの顔、そしてあの宝石のように美しく蒼い瞳。
「さあ…? でも…そんな、顔、し…てく…れるって…こ、とは…。オレ…」
そこまで言って、口から血を吐き出した。
「馬鹿ッ、しゃべるな!」
叫んだセツに驚いた顔を返してから、血の気の下がった死の匂いのする顔のままでこの上ないくらいの幸せそうな笑みを浮かべる。
「そんっ…な、顔…やめろ、よ…」
「いいから黙れ、もうしゃべ…」
ふぃに、その頬に伸ばされた手にセツは言葉を止めた。
「…オレ、ちょ…と、こ…か…い、して…」
微笑んだまま儚げに笑う、口調がゆっくりと途切れ途切れになっていった。
ぼんやりと開いていた瞼が、それに合わせるかのようにして閉じて行く。
「ちょっ…ラフェル!」
名を叫んだ声に、口だけが微笑んだ。
「……ま…よ…」
「何…? 聞こえない。…聞こえな…」
その声をしっかりと聞こうと、セツはその耳を近づける。
「―――――――――」
言葉は途切れ途切れて、その後は何も起こらなかった。
躰を支えるようにして首の後ろへと回されていた右手が、確かにそれを伝える。
弱々しく打っていた、ラフェルの脈。
それが、今、途絶えた。
ラフェルは死んだ、ティアーゼと共に。
後に残されたのは深い哀しみを心の奥底に秘めた、たった独りの不完全な人間。
セツという名の、少女。
茫然としたままでラフェルの胸へと額を押し当てた、それから両腕に力を込めて抱きしめる。
ラフェルの腕から流れた血液に混じって、透明な水が一緒に流れ落ちた。
「オレ、また…ティアーゼに名前を呼んで貰えて嬉しかった。…きっともう、無理だと思ってたから…。
だから…オレ、少し、本当に少しだけ…―――」。
後悔してる。
言葉が、響いた。
ティアーゼは?
声が続いたが、セツには何も答えられなかった。
答える事は、そんな資格はないと自分に言い聞かせる。
だから、ただ。
思っていた。
ティアーゼとセツに、言い聞かせて。
今のセツにはそれしか出来なかったから。
この時、セツはティアーゼへと、その心を返した―――――。
■BACK
■MENU
■NEXT