「―――セツ?」
ふいに掛けられた声に、セツははっと我に返った。すっかりとそこにラフェルがいた事を失念していたのだ。
しかも慌てたためにそのままの勢いで顔を上げてしまった。
「なっ…何、泣いてんだよ…」
想像もしなかった展開に、今度はラフェルが慌てる。
「誰が…泣いてると?」
震える声で言っても説得力は皆無だ。
「お前だろ…」
ぷいっと顔をセツから逸らすと、
「生きててよかったな」
そう、ぶっきらぼうに口にする。
「言われなくても…。それに、別にあのまま死んだ所で…」
哀しむ者などいないのだから、そう声にならない声でセツは続けた。
「素直じゃねぇな! 有り難うくらい言えないのかよっ!」
言い方が気に入らなかったのか、科白が癇に障ったのか、怒った声でラフェルは叫ぶ。
セツはそれを無視して無言を返すと睨み付けた。
「お前なぁッ!」
ムカッとしてセツにづかづかと近付く。
「人が心配してんのに…」
そこでぷっつりとラフェルは言葉を止めた。
セツを見下ろしているその顔が次第に赤くなって行く。
とうとう耳まで真っ赤になるのを見届けてから、
「お前…、頭に血でも上りすぎたか?」
呆れ声でそう問い掛ける。
しかしラフェルは何も答えずに全身硬直状態になったままだ。
1つ、溜息を付いたセツが無造作に右手をラフェルへと伸ばした。
「ばっ……お前!」
伸ばされたセツの手から逃れるようにしてそっぽを向き、それから、
ちらっと視線だけをセツに戻したかと思うとすぐさま天井を見上げ、真っ赤にした顔に冷や汗までもたらし始める。
ラフェルの異常な様子に、頭が可笑しくなったのだと思ったセツは興味深そうにじっとその姿を観察した。
その視線に気付いたのか、ラフェルは居心地悪そうにあたふたする。
セツは前髪を挟んで、そんなラフェルを見つめた。
相変わらず変な奴。
そうセツが内心呟いた時、徐にラフェルが上着を脱ぎ出した。
何が始まるのかと唖然としてそれを見守るセツの前で脱いだ上着を手にそれを見つめて思案するような素振りを見せる。
それから、セツへと上着を投げつけた。
訳のわからないその行動に驚いたセツは、その驚きの余り上着をまともに頭から被ってしまう。
数秒そのままで停止してから、ゆっくりとそれを引き降ろした。掛け布団の上に置かれた上着を見つめてから、顔を上げる。
「何、これ?」
静かに問うその声は、いつものセツだ。
しかしラフェルにはその方が逆に落ち着けて安堵の息を漏らした。
それから、静かに返事を待つセツに向かって、間が悪そうな表情を浮かべ、
「…何か着てないと、風邪、引くぞ…」
ぼそっと呟いて視線をセツから外した。
「え…?」
何のことかと訝しげな声を漏らす。
それから、じっとラフェルの投げつけた上着を見つめた。
その後。
「なっ! 何でッ…?」
白い肌を見る見る内に朱に染めてセツは叫んだ。それは確かに、普通の人間の反応。
「なん…ッ、ラフェル、お前ッ!」
「ちっ…違う! オレじゃないッ!」
「じゃあっ、一体誰だと!」
完全にセツは怒っていた、無理もない話だが誰が見ても一目でそうとわかる怒り方。
「だから…その、傷の手当てとかをした、此処の…」
あたふたとそう口にしてから、その後何と言えばいいのかと言葉に詰まって俯く。
セツはそれをしっかりと睨み付けていた。
「―――わかった。じゃあそれは置いておくとして…リュー達はどうした?」
「あ…先に行った…って言うか、行かせたって言うか…。多分」
返った答えに、セツは口元に笑みを浮かべる。
「そう、じゃあ…無事、か」
安堵した声。
「すぐに後を追わないとな」
少しの間を空けて言うとラフェルへと視線を戻し、
「悪いが…オレの荷物は?」
「…え、ああ、ここに。燃えちまったのもあったかもだけどさ…」
「取ってくれ」
短く言うと、滑るようにしてベットから降り立つ。その動きに合わせて、長い髪が揺れた。
ラフェルに背を向けるようにして立つと、自分の腕を始めとして躰全体の様子を眺めた。
異常どころか、小さな傷1つ見当たらない。
「大した腕だ…」
ラフェルにも聞こえないような小さな感嘆の声を漏らすと、肩越しに振り返る。
「荷物は?」
がさごそと何かを漁っている様子のラフェルの背に向かって問い掛ける。
「…ちょっと待ってろって。……ああ、あったぁ!」
叫ぶとその手にバッグを持って立ち上がり、振り返ってそれを投げた。
それと同時に視界に入ったのは、全裸のセツの後姿だ。
長い髪がそのほとんどを隠してはいるものの、所々に見える白い雪肌がいやに艶かしかった。
「荷物を投げたらすぐに向こうを向く」
鬼のように威圧感のある声に反応して、慌ててセツに背を向けた。
肩で息を付くとラフェルの投げたバッグの中から1つの皮袋を取り出す。革紐を解いて、その中から紙包みを取り出した。
ガサガサとそれを開くとそこにはきちんと服がたたまれていた、いつもの服装だ。
セツはそれらを着込んでから全てをバッグに戻すと、今度は黒い布を取り出した。
ばさっとそれを開くと、躰に上手くぐるっと巻きつける。
いつもの、黒マント。
「…これでよし。ここの人達にお礼を言ったらすぐに後を…」
そこまで口にしてから、ふいにラフェルを振り返った。
「何で、お前は此処にいるんだ?」
今更の問い掛けに、がっくりと肩を落としてよろよろと振り返る。
「何だよ…それ。しかも今更」
「リューと一緒じゃなかったのか?」
「先に行かせたって言ったじゃん」
「ダイはどうした?」
「置いて来た」
「護衛の方はお前が受けた依頼だと聞いてるが?」
「それは、そうだが…。その…。―――何でお前、女だって黙ってたんだよ」
答えになってはいないがセツの気を逸らす事が可能と思われる科白を投げ付けた。
しかし。
「男だと言った覚えはないが」
淡々とした声が返った。
「もし…そうだと思っていたのなら、それはお前の勘違いというやつだ。ただの」
明らかに馬鹿にしたような口調に、ラフェルは一瞬むっとする。
「それで、何故此処にいる? リューを守るのがお前の仕事のはずだろう?」
「―――許可は貰ってる」
何故か僅かに顔を赤らめて、視線をセツから外して答えた。
「何の?」
「だから…。って、別に言う必要ないだろ」
「そうだな」
言葉に詰まったラフェルの誤魔化す科白を気にも止めずに頷く。
「だったら、お前もオレの事をあれこれと聞くな」
付け足すようにして言うとバッグを左肩に背負い、ゆっくりとした足取りで歩き始めてラフェルの傍を素通りした。
自分の目の前を歩いて行くセツを息を飲んで見つめたラフェルは、無意識のうちに去り行くセツの腕を掴む。
「なっ…」
急に腕を捕まれ体勢を崩したセツは後ろへと転びそうになるがすぐさま反転して躰をラフェルへと向け、
右足を後退させてバランスを取った。
ラフェルは自分の行動よりも、体勢を立て直そうとしたセツの乱れた前髪の間から自分を睨んでいたその瞳に驚き目を見開く。
じっと自分を見つめる、双眸。
他人を信用しない、哀しげな色の瞳。
「離せ」
腕を掴んだままで惚けているラフェルに向かって声のトーンを落として命令する。
しかし反応もなければ、腕を離す様子も見せなかった。
「聞いてるのか?」
呟いたセツに、ラフェルは無造作に腕を振り上げた。
「なっ…」
真っ直ぐに伸ばされたその右手にはしっかりとセツの腕を掴んだままで。
2人の身長差は20センチ以上あるため、必然的にセツの足は床から離れラフェルに捕まれた腕に全体重が掛けられる。
「ばっ…、離せ」
なおも無言でその表情は茫然としたままのラフェルにその状態のままで数秒の間が開く。
捕まれた腕の辺りの神経が、悲鳴を上げていた。感覚が危うくなって来る。
しかし確かに腕に全ての力がかけられている事を腕の付け根、肩が叫んでいた。
腕がそこから千切れそうな、嫌な感覚に襲われる。
「―――セツ、お前は……一体、誰だ?」
静かな淡々とした声がやっとラフェルの口から漏れる、自分と同じ高さにあるセツの読めない表情へと向かって。
セツは肩の痛みに僅かに俯いている。
当然答えは返らない。
「何故、顔を隠す?」
重ねて、問い掛ける。
「…蒼い、瞳」
やっと聞こえるぐらいの声で呟いたその科白に、セツが弾かれたように顔を上げた。
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