一体どれほどの時間が過ぎたのか。
沈みかけていたはずの太陽はすでにその姿を消していた。
今、この地を覆っているのは儚げに柔らかな満月の光。
森の中には、所々にそれが届いていた。
それでも暗い闇である事に変わりはなかったのだが。
そんな中で、セツと男の戦闘は続けられていた。
さすがに疲労の色が隠せないのか、セツは肩で息をしている。
無論、男についてもだ。
「―――全く、しつこいガキだ」
肩で大きく息を付いて呟いた男を、セツは冷ややかに見据えたまま。
「まだ、殺る気か…貴様は?」
男の問いに、頬を滴り落ちてきた汗を拭ったセツはその口元で笑う。
「無論、聞くまでもなく」
答え、剣を振り翳す。
男はそれを読んでいたのか後方へと飛び何なく交わした。
セツに二撃目を続ける意思はなかったのか、そこで足を止める。
「はんっ! 貴様、何故そこまでしてオレを殺そうとする」
男は余裕の笑みのようなものをその顔に覗かせて言う。
セツは答えなかった。
だが、無言を返したその姿に男は高らかに笑った。
「皇女に惚れでもしたか」
今にも吹き出しそうな声。
それでも、セツは答えなかった。
「図星なのか…? 黙っているという事は、肯定しているのだろう?」
嘲笑うかのように問い掛けた。
それでもセツは答えず、変わりに男を睨みつけた。見えない素顔で。
「―――そうかもな」
数秒の間を置いて、セツのそんな声が静かに響いた。
「だが、勘違いするな。確かに、リューを大切に思っている。必ず、守りたい…。それでも、恋愛感情などはない」
その科白に返ったのは、男の嫌な笑い。
「では何だと言うのだ? よもや、忠誠心などと言うわけではあるまい?」
その科白に、今度はセツが笑った。
「何が可笑しい!」
愉しげに笑うその姿に馬鹿にされたのだと男がいきり立って叫んだのに対して、
「いや、別に…。大した事じゃない」
小さく返したその科白に男の顔には更に怒りが広がる。そこでやっと笑うのを止め、
「ただ、1つだけ言わせて貰うが…。お前とこうして剣を交えているのは、何もイリューゼのためではない」
そう静かな声で告げる。
その科白に、怒りで紅潮していた男の表情が困惑へと変わった。
(何…? 何故、皇女を…)
「自分のため、だ」
「何だと?」
短く呟いた自分の科白に男が返したのは怪訝そうな顔、その表情にくすりとセツは笑った。実に愉しそうに。
「自らの、怨恨のため。…感情などいらなかったんだがね、お前を見たらそうも言ってられなくなった。レウィの言う通り、
まだまだ修行不足のようだ」
クスクスとセツは笑い続けた。
男の顔はその様子に更に怪訝そうに眉を顰めるだけで、その言葉の意味すら理解していないように思えた。
「まだ、わからないのか? オレはずっとミュートリアの兵であるラージェイを捜していたんだが…。偽者ばかりでね」
その科白に、男がびくんっと全身で反応してみせた。
「まさか、貴様が……黒き死神?」
返った言葉に、セツは口元を歪める。
「そういう風に呼んでいたかもな…。お前等、ミュートリアの兵達は」
「…まさか。何故、オレを…?」
誰が見ても一目瞭然な、男――ラージェイの狼狽振りに、薄い笑みを口元に浮かべ、
「本気で言ってるのか、それは? ―――まあ、いい…。教えてやるよ、本物だからな…忘れもしないその顔は」
その言い方にラージェイは首を傾げた。
当然である、全く見覚えのない相手だったのだから。
「その惚けた耳でよく聞くんだな。ユゼの皇王、ラージェイ?」
愉しげに呟かれた科白にその躰ががたがたと震え出した、表情は恐怖と驚愕の入り混じった複雑なものへと変化している。
「―――それを、何故、お前が…知って…?」
その表情を声に乗せて呟いてから、弾かれたように目を見開いた。
「まさか、貴様…!」
完全の血の気の下がったラージェイは核心したかのような叫びを上げた。
その声にセツは口元を歪めると、左手を自らの顔へと寄せてその長く伸ばされた前髪を上げる。
後に現れたのは、宝石のように見事な碧い瞳を持った
1人の“少女”だ。
そのままで、セツはラージェイへと微笑み掛けた。
「そう、お捜しの人物」
呟く。
その顔には見覚えがあった、確かにその面影を残す者。
そして、先頃、同じ顔をした者が此処にいたのだ。
「皇女、ティアーゼ……。馬鹿な! 生きているはずがッ…!」
茫然と呟く声に、クスクスと笑い返し、
「あんなモノで死ぬわけないだろう? だからお前はこんな辺境へ飛ばされたんだ」
そう薄笑みを浮かべて断言した。
ラージェイは背筋に冷たいものを感じながら、後ずさりを始めている。
いくら何でも相手が悪すぎると、気付いての事であった。
今までは互角に戦えていた相手だ。
だがしかし、現在の時刻は夜。そらに浮かぶは満月。
もし、セツ=ティアーゼが月の力を行使すれば負けるのは必死。
素人でもわかる事。
だからこそ逃げるのが最良の道、逃げ切れるかどうかは別の問題として残るわけだが。
後ずさって行く姿に、ニッと口元を歪めると、
「安心しなよ、月の力は使わない。バレるだろう? オレの事が」
そう呟いた。
その科白にあからさまに安堵した顔をラージェイは返してほっと胸を撫で下ろす。
「そんなに露骨に喜ばなくてもいいだろう。例えそれでも、お前が死ぬという事に変わりはない…。
ま、いささか寿命が延びるだろうがな」
クスクス笑うとその視線を鋭くさせ、
「逃げるなよ?」
そう、釘を指した。
それから右手を下ろして再びその顔を隠すと、剣を構えなおして1歩前進する。
それに合わせてラージェイは後退した。
セツ=ティアーゼは薄く笑い、
「行くぞ」
チャキッ――――。
しんっとした闇の中で微かに音が響いた。
そして、風の音。
キインッ―――――。
剣と剣がぶつかり合った。
互いを抹殺するため。
自身のため。
誰か、大切な者のため。
思いのため。
そして、生き残るために。
眼下には延々と緑の絨毯が広がっていた。
空は、うっすらと青みを帯びて朝が近い事を告げている。
遥か東の地平線はオレンジ色に淡く輝いていた。
「朝か。…また、日が昇る」
ぽつりと、ラフェルは呟いた。
くだらない毎日。
何のために生きているのかを忘れさせた、この四年の月日。
しかし。
今はわかる。
目的は、1つ。
きっと始めから決まっていた。
そう、生まれる前から。
自分の存在価値、生まれた理由は。
そう、全ては。
「会うために。きっと、あいつに…」
独り言ちる。
「―――は? 何言ってるんですか? ラフェル様、大丈夫ですか?」
思わず呟いた一言に怪訝そうな顔をダイが返した。
「別に、何でもねぇけど…」
視線を合わせもせずに答える。
「そうですか? なら、いいんですけど。変な事を考えないで下さいよ?」
その心を読んだかのような科白をダイは口にし、見透かされたのかとラフェルの心臓がドキリと鳴った。
「もうすぐ、森を抜けますからね」
そう付け加えて、ダイは不安げに主である青年を見つめた。
あれほど早く森を抜けたがっていたはずのラフェルがその事に全く反応を示さない姿に、何かを考え込んでいるのだと察したからだ。
無論、今までの経験からである。
「ラフェル様、聞いてますか?」
「…ああ」
全くの生返事。
確実に何かを企んでいると確信し、穴が開くほどの視線をラフェルへと突きつけてみたのだが反応は見られなかった。
心ここにあらず、正しくその通り。
「見えました…。あそこからは、ほぼ砂漠と同じ砂地です」
目を皿のようにして前方を見据えていたイリューゼが、そう声を上げた。
さすがにこれにはラフェルも反応を返す。
視線をその方向へと送り、森がそこで終わっている事を確かに確認する。
「あそこで降りて、セツを待ちましょう」
肩越しに振り返ったイリューゼが微笑み、それにカジェスは頷き返してダイは溜息を吐き出した。
ラフェルは昇り来る朝日へと視線を戻して、何かを真剣な表情で考え込んでいた。
何かは、わからなかったが。
それがセツに関係しているであろう事を、イリューゼは何となく理解していた。
数秒後、完全に森を抜けた4人はふわりとした動作でゆっくりと地に降り立った。
全員が、安堵の息を漏らす。
「セツもすぐに来る事だろう。とりあえず体力の回復を、それからラフェルは精神力と魔法力も回復させた方がよいな」
カジェスがしっかりとした口調で周囲を見回しながらそう言った。
「その方がいいですね」
カジェスの意見に頷く返事を返したのは珍しい事にダイ。イリューゼも了承するかのように微笑んだ。
東の空は、朱色に染まっていた。
セツ=ティアーゼの味方であった夜と月はすでに西の空へと消えている。
落ちぶれたとはいえ、さすがはかつてユゼ攻略を任されたほどの者。
手ごわいどころの騒ぎではなかった。
力量は、ほぼ互角。
しかしながら、体力面において2人にはかなりの差があった。
さすがに一昼夜も戦い続ければ体力の低下は否めないのは当然なのだが。
そのため勝敗の結果はある程度まで見えていたといっても過言ではなかった。
セツ=ティアーゼにこのままでは勝ち目などない。
それは、本人にもよくわかっていた。
それでも負けるわけにはいかなかった。
父と母のため。
自分のため。
妹のため。
ユゼの民のため。
過去の自分のため。
妹との約束のため。
そして、セツの名において。
決して敗北は赦されなかった。
負けられなかった。
全身の血が流れ出ようとも、その両手が両足が動かなくなったとしても。
剣が折れ、魔法力がなくなっても。
そう、例え、死んでも。
負けられなかった、負けたくはなかった。
この命と引き換えてでも。
だからこそ、戦い続けていた。
それらの思いと、気力だけで。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
肩で、大きく息をしていた。
視界は自らが流した血が固まってしまったせいで真っ赤に染まり、両腕にはすでに感覚がない。
その手に剣を本当に握っているのかさえ、わからなかった。
ただ、耳に響く金属音だけがそれを確信させている。
「―――ッ」
躰から滴り落ちていくモノは、切り刻まれた傷口からの血液と全身から溢れ出る汗とが交じり合ったモノ。
あたりは、それらで所々が彩られていた。
緑に紅は非常に映えた。
それなりに美しく、森は塗り替えられている。
薙ぎ倒された多々の樹木に降りかかる紅の水。
そこは、死の森と呼ぶに相応しいかった。
この上ないほどに。
死んでしまおうとしている森。
無数の血痕。
不気味な、彩りを。
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