「お久しぶりです…。お元気でしたか?」
声が湯煙の中で響いた。
「そう…ですね。あれから、もう7年も経ちますから」
静かに答えるセツの声が続く。
「ここを通ると思っていました。ですから、此処に…、此処で待っていたんです。―――セツの名を冠して…行くのですか?」
「はい」
静かに頷くセツの声。
「そうですか…。もう、止めはしません。その権利はありませんから」
ぱしゃん。
水が跳ね、影が湯煙の中に浮かび上がる。
小さな、70センチ程のもの。
「それでも…賛成は出来ません。私には」
影がゆっくりと向きを変えながらそう呟いた。
「ルイシャ、何故?」
問い掛けたのは、セツだ。
「私があの時…あなたを守りきれなかったから。だから…」
そこで言葉を止めてじっとセツを見つめると、
「強い、間違いなく。例え…今のあなたでも勝てるかどうか…」
そう、哀しげに続けた。
「それでも…戦うと決めた。ルイシャ、あなたが死んだ、あの時に」
静かにセツの言葉が響き、全ての音が制止する。
立ったままで静かに自分を見つめる姿に、和やかな視線をセツは返した。
暫くして、ルイシャが軽やかに微笑む。
「怒りに任せての復讐というわけではないのですね…?」
頷くようにしてそう呟いた。
その言葉に、こくり、とセツが頷く。
「それに…」
小さく、セツが呟く。
「見つけました。ユゼの双子を」
付け加えて微笑みを浮かべたその表情にルイシャは驚きとも嬉しさとも取れる色を浮かべ、
「では…、イリューゼ様を?」
「はい。それに、日の騎士も共に」
続けられた言葉に、ルイシャは驚きを露にした。
「カジェス様が…? そう、ですか。…しかし、月の――」
「いません。もう、この世には…」
科白を遮るようにして目を伏せたセツが呟いた。
その姿に、がっくりとルイシャは肩を落とす。
「それでもユゼがある限り、戦います。生きていてくれた、それだけで戦うのには十分な理由です。そう、決めましたから」
すくっと立ち上がったセツがはっきりと意を決した口調でそう言った。
「勝てなかったら?」
不安げなルイシャの声が響く。
「その時は今よりも…」
そこで言葉を止め、セツは頭を振った。
「考えません。…そんな事は、決して」
「そうですか…。わかりました」
ルイシャは優しげに微笑むと、水音を立てて湯船より上がると背を振り返る。
「負ける、気がしない。今は…」
セツが笑みを零しながらそう口にする、そのように微笑むのは本当に久しぶりだった。
「頑張って下さい。今の私には…月並みですが、これしか言えません」
「十分です、ルイシャ」
微笑み、
「あなたに再びこうして会えた事が、何よりです」
そう、続けた。
「そうですか…」
複雑な、されど嬉しそうな笑みを浮かべ、
「今の私は、この宿の娘ですから…。実の親子ではないのですが、本当によくしてくれています。
何かあったら、此処へ来て下さい。微力とは思いますが…力に、なれる事もあるかと思います」
その言葉にセツは本当に驚いた顔をしてみせた後で、実に嬉しそうな笑みを普段は鉄面皮のその表情に浮かべた。
「有り難う、ルイシャ」
そう、小さく呟いた。
自分のために命を落としてしまったというのに、このように心配し、しかも記憶を持ったままで生まれ変わってくれるなど、
信じられない事であった。
正確にはルイシャは輪廻の輪に加わらず、所謂、生まれ変わりとは違い、自らその道を選んだためそのような状態であった。
それが何を意味するのかセツ自身にわからないわけではなかったのだが、その事も含めて、
今のセツには感謝する事しか出来なかった。
今日この日に、この者、ルイシャと出会えた事を。
掛け替えのない、大切な思い出と共に。
賑やかな商業都市、ローランサン。
そこでイリューゼとカジェスは、無駄足を踏みながらもしっかりと3人を待っていた。
再び、5人パーティーとなった彼等は旅路を急いだ。
とはいっても、5人が再開したこの日は当然のようにこの街、ローランサンで1泊した事は言うまでもない。
そして、翌朝早くに街を後にした。
今、彼等が歩いている所は辺境ではあるが、確かに、ユゼ、いや、侵略国ミュートリアの国土であった。
そして現在、5人が進むのは深い森の中。
ローランサンを南に抜けた所。
さらに南に平地を下っていけば、順調に進んで10日ほどでユゼの首都であったティマ・ティアスに到着する事が出来る位置。
だが。
妨害が入る事は必死。
そのため、こんな森を歩いていたのだ。
俗に言う、獣道である。
さすがにイリューゼには疲労の色が見られた。
このような場所を進むなど、武術を苦手とする者にはかなり無理がある話なのだろう。
とはいえ、ラフェルとダイの2人もすでに息が上がっていたのだが。
平気な顔をしているのは、セツとカジェスの二人だけである。
「今日はこの辺りで休む事にしよう」
日も沈みかけ、イリューゼの疲労度を気に掛かけたカジェスが振り返ってそう告げる。
その言葉と共に、イリューゼ、ラフェル、ダイの3人がその場にへたりと座り込んだ。
肩で大きく息を付く3人の姿を見回してから、1人平然と肩の荷を下ろしているセツへと視線を走らせる。
「セツ。悪いが、結界を頼めるか?」
ラフェルの状態を見るに見かねて、この上更に結界をというのは酷であろうと判断したカジェスは、そう問い掛けた。
その声に顔だけ向けると、頷き返す事もなく無言のままで承諾の意を込めて呪文の詠唱に入る。
僅かに天を仰ぎ見るようにして呟く言霊は精霊術を会得していないカジェスには意味不明だが、
ほっと安堵の息を漏らしてイリューゼの傍へと歩み寄った。
「リュー様、大丈夫ですか?」
隣に腰を降ろして心配そうに顔を覗き込んで問い掛ける。
「はい。この程度で疲れていては、姉様を捜し出して、国を取り戻す事など…不可能でしょうから…。まだ、平気です」
すっかり息の上がった状態で、肩で大きく息をしながら微笑みを浮かべる。疲れているのは一目瞭然なのだが。
「そうですか…」
苦笑して頷いてから、
「ですが、無理は禁物です」
そう、釘を指して優しげな眼差しを送る。
「―――あ、終わったようですね」
周囲を覆った薄紫色の結界に、ふいに視線をカジェスの背の向こうへと向けてそう口にする。それから不思議そうにセツを見つめ、
「ご苦労様です、セツ。あなたは、平気なのですか…? カジェスと同じように?」
そう、言葉を掛ける。
セツは相変わらず何も答える事なく自らの荷を解いていたのだが。
その姿をイリューゼと同じように見つめ苦笑したカジェスが、
「そのようですな、リュー様。恐らく、鍛え方が違うのでしょう」
感心したような声で、黙り込んだままのセツをフォローするかのようにそう口にした。
その声に顔を2人へと向けると、
「生活環境、だ」
あっさりと本人が否定した。
「生活環境…と、言いますと?」
興味津々な眼差しで立ち上がると、セツの傍へとイリューゼは歩み寄った。
すでに荷を解き終わり寝る準備すら万端と思えるセツの様子に、半ば感心しつつその返事を待つイリューゼ。
「山育ち」
短く答えると、セツは辺りをきょろきょろと見回した。それからふと、視線を一点に集中させてその方向をじっと見入る。
その視線の先には変わらず木々が生い茂っているだけだ。
そうして、そこにイリューゼがいるにも関わらずくるりと背を向けると足早に結界の外へとその姿を消した。
目を瞬いていたイリューゼはそれを止めるのも忘れてその背を見送る。
それからはっとしたように背後を振り返ると、
「セツは本当に山育ちだと思いますか、カジェス?」
気になっていた言葉をそのままカジェスへと投げかけた。
「そうですね、山育ちの割には少々品が良すぎるような気がしますが…」
「でしょう?」
自分と同じ意見が返った事に頷いてから思案するような仕草で顔を伏せると、
「嘘、なのかしら…」
そう、誰にも聞こえないくらいの小さな声でイリューゼは呟いた。
「それと、セツは何をしに行ったのかしらね。結界の外へ出るなんて…?」
思い出したかのような疑問。
「さあ、わかりかねますが…。そうですね、セツの向かった方角には水があります」
「水?」
「ええ、気の流れから察するに恐らく。…水を汲みにでも行ったのでしょう。途中、面倒な輩に会わねばよいのですが」
そう呟くと、セツの消えた地点を見つめるようにして視線を流すと、
「この辺りは、国境沿いですから」
心配そうに口にした科白に、イリューゼは不安げな表情を浮かべてカジェスと同じようにその方向を見つめた。
ぱしゃんっ。
静かに降りてきた闇の中で、澄んだ水音が響いた。
「―――水は、嫌い」
セツの哀しげな声がその後に続く。
それから、無造作に黒マントを脱ぎ捨てるようにして地に落とす。次いで、内に着込んでいた軍服のような服を脱ぎ、
ネクタイを外し、それらはマントの上に落とされる。
「はあっ…」
大きな溜息を吐き出した。
何故、このような事になったのか?
その理由を何度となく自身に問い掛けても、答えはいつも同じだった。
「くそっ、どうして、いつも…いつも、こうも甘い」
きつく拳を握り締める。
その拳の中から、はめられている黒い手袋を破って、闇の中で赤黒く光るセツ自身の血液が姿を現した。
こんなはずでは、なかったのだ。
「このままでは…」
小さく呟く。
巻き込んでしまう、本来ならばたった独りであったはずなのに。
遠いあの日に、誓ったというのに。
全てを失ったその日に。
妹を守れず失った自分に生きがいをくれた者達、その者達のために。
その者達の死に報いるために。
だからこそ。
「必要ない、感情など…」
力なく呟いた。
そうしてから、深呼吸をして手袋を取ると着ていたシャツと直接身に付けていた例の棒を地に落とした。
「だから、生きて下さい。オレの分も」
祈るように呟くと、天を仰いだ。
この上ない程、悲痛な表情で。
「天空に住まう、優しき母。…いつも、見ている。けれどオレはもう…あなたと会う事は赦されない…」
右手を、胸元へと運んだ。
シャラ―――――。
鈴の音のような、鎖の音。
首に掛けられていた銀の鎖。
そして、手の内に握り納められた淡い白銀の小さな石。
セツに唯一残された、その出生を現す全ての思いの込められたモノ。
「―――約束、を」
口裏でそう呟いたセツは、その石を除いて静かに身に付けていたものを全て剥いだ。
最後に髪を解き、額のバンダナを外す。
そして、水の中へと躰を埋めた。
ぱしゃんっ。
もう1度水音がして、辺りは元の静かな闇へと返る。
水面には、明るい月の光が映し出されていた。
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