Number −銀の魔方師−
7:銀の魔方師 (07-03)



 ぱちくりと目を瞬く、レシャとカイエルの二人。
「はい、完了。これを潜ったら、ウィンの2階に出れるよ」
 笑顔での科白に、二人は顔を見合わせる。
「潜るって、セレス、これは…」
「赤い窓?」
「ドアだと思って。ほら、時間ないんだから、さっさと潜るー」
「え、いや、でもなぁ…。なぁ、レシャ?」
「そうだな。どう見ても、潜る、という単語は似つかわしくないんだが」
「押し込めてあげようか?」
 躊躇う二人をセレスがじと目で一瞥した。
「え…いや、それは流石に。もういい」
 すっかり忘れていたが、突き飛ばされて穴を落ちた事をレシャは思い出す。
「うーむ、窓にしか見えねぇんだけど……」
 眉間に皺を寄せたカイエルが、恐る恐るといった風に赤いそれへと近付き、右手を伸ばした。
 触れて遮られるかに見えたそれは、
「うぉお、何じゃこれ!? すげー」
 お子様全開のカイエルの喜びで、事実、別所へと続く扉である証明がされた。
 伸ばした手というよりも、右手が中ほどまで、吸い込まれるようにして通り抜け、向こう側に出る事なく忽然と消えている。
 半信半疑だったのだろう、レシャも驚いた顔をしていた。
「カイエル、喜ぶのは後にしてさっさと行けってば〜」
「レイト、だってな、これ! 見てみろよ、これー!!」
「あ〜! もっ、しょーがないな〜。―――行ってこーい!!」
「ぐはっ!」
 顔だけ肩越しに振り返っていたカイエルの顔面に、思いっきりレイトが体当たりし、間抜けな声を上げて、 斜めになったギャグのような格好で倒れる。
 勿論、セレス曰くドアの向こうへ向けて、膝から下だけが切れたようにその場に残された。
「不気味な」
 引き気味のレシャの声に、困ったように苦笑したセレスが、足を掴んでその向こうへと押し入れる。
「はい、次はレシャね」
「セレス、遠慮がないな」
「漫才やってる暇はないから。一応、急いでるしね」
 真顔で告げられた科白に、躊躇いつつもレシャが一歩を踏み出し、
wall of vacuum
 あらぬ方向へと顔を向けたセレスがそう唱えた。
 バチッ―――――、視線の先で、赤い光が四散する。
 それに驚いたレシャとイチノが同じように視線を巡らせ、その表情を強張らせる。
「―――二の珠…」
 半ば茫然とイチノが呟き、それにセレスが色を違える双眸を細めた。
 そこにいたのは確かにニノ――二の珠を受けた神兵だったが、彼はカイエルによって死を迎えていたはずの存在である。
「随分饒舌に話すと思ってたけど、珠を受けてたのね」
 冷淡な声音のセレスだったが、近付くニノの視線はただ一点を見つめていた。
 セレスではなく、その後方に。
「一の珠、どういう事か説明願えますか?」
「二の珠、私はもう、一の珠ではありません。その役目は、クゥが」
「そうですか。―――銀の方、もう一人…そちらも銀の方ですが、彼はアナタが招いたのですか?」
「いいえ」
「では、何故、共にいるのですか? そもそも、この館における一の珠の役目はアナタ以外の者には務まらないはず。 それをクゥに譲るなど」
 歩みよりながら神兵特有の淡々とした声で言葉を紡ぐニノに、悲痛にも似た表情に顔を歪めてイチノは黙った。
「答えてはいただけませんか」
「その必要はないでしょう?」
 イチノを背に庇うようにして、5メートルほどの距離を持って立ち止まったニノとセレスが対峙する。
「銀の方、アナタの目的は、我等が主ですか」
「そう。二の珠なら、気付いてるわよね? こうなったのは自業自得だし、アナタのしようとしてる行動はすでに無意味だって事にも」
「……そうですか」
 セレスを一瞥し、次いで、レシャを見つめてから、神兵とは思えないほどに―――歪んだ笑みを口元に浮かべた。
「主に逆らう者は排除、侵入者は―――ああ、捕獲との命でしたが、最早それは意味を成さない、従って、同様に排除する」
「結局、人形は人形なのね」
「セレス。アイツ、何かヤバい感じが…」
「確かに、始めに会った時と雰囲気が違うような気はするけど…。それはこの際、どうでもいいよ」
「―――主に背く者も、全て、全て、排除する。主が還りし、全ては無に消える」
 歌うように紡がれた科白に合わせて、その周囲に数え切れないほどの赤き光が浮かび上がった。ニノの姿を隠すほどに。
「ニの珠の許容を超えてる…?」
 驚いた声をセレスが上げ、ビシリ、と双方の間に大きな亀裂が入る。
「館は還る、還る、主と共に」
「セレス、建物もとうとう限界が来たみたいだが、アレの相手をする時間の余裕はあるのか?」
 狂ったように赤き光を生み出しながら言葉を紡ぎ続けるニノに、大きく罅割れた床を見つめてレシャは険しい表情になった。
「それはいいから、レシャも早く」
「だが…」
「―――ニの珠、まさかとは思いましたが…」
「どうしたの?」
「許容量を超えていて当然です、彼は、捕獲用にと渡していた珠を、自らに使ったのです。珠はニの珠の死を認識したのに、 まだ留まっているのですから間違いありません」
 その科白に、セレスの顔が無表情になった。
 思わずレシャすら言葉を失うほどに、冷徹な顔。
「そう…」
 口を突いた声も、凍り付いたモノ。
「皆、皆、共に、主と共に、消えるといい」
 相変わらずのニノへとゆっくりと向き直り、
defense and nonaggression area
「跡形もなく」
 二つの声は同時に漏れ、セレスが地を蹴り、赤い光が動いた。
sword of vacuum
「セレっ…」
 視界いっぱいに広がった赤い光に、レシャとイチノの二人は思わず目を閉じる。
 耳に届いたのは、音だ。
 轟音が起こると思われたが、実際は、小さな、小さな、ずぷり、という不快感を誘う音。
「さようなら、ニの珠。大人しく眠りに付きなさい」
 冷淡に響いたセレスの声に、レシャが薄っすらと瞼を明ける。その横に並ぶようにしたイチノが、哀しげにそれを見ていた。
 いつかの焼き増しのような光景。
 違うのは、ニノ自身はすでに薄い笑みを浮かべたまま項垂れて、その活動を停止しているという事。
「壊すわよ、これ」
 セレスの手には、赤い石が握られていた。
 イチノが捕獲のためにとニノに渡した、躰を貫通してセレスが取り出した、珠。
Disappearance
 声にあわせ、珠が四散した。
 ずるりとニノの躰から腕を引き抜くと、その場に崩れ落ちる姿を見るでもなくきびすを返す。
「急いで」
「…セレス、大丈夫、か?」
「平気」
「有り難うございます」
「礼はいいから、アナタも」
「はい」
 無表情なままのセレスに、素直に頷いたイチノがカイエルを追って扉をくぐる。
「レシャ」
「あ、ああ…」
「イーヴェヴァセレスの事なら心配いらないよ。最後に通るから。これ、イーヴェヴァセレス用だから、 本人が潜ると他の人は通行不能になっちゃうからさ」
 苦笑したようなレイトの声が上空より届いた。
「それに、ほら…。またお客さん。増えるから、さっさと退去しないと」
 後方を見やるようにしたレイトに、レシャが振り返る。
「アイツら」
「レシャ、いちいち相手にしてたらキリがないよ」
 腰を落として床に両手を付いたセレスが告げて、
「おいで」
 声と共にほんのりと白い光を帯びた両手に、地響きが続いた。
「なっ…」
「イーヴェヴァセレスの本領発揮ってトコだね〜」
 揺れに驚きの声を上げたレシャと、愉しげな声のレイトと、更に大きな揺れが起こり、その数メートル先で床が破裂した。 飛び散る瓦礫から顔を背けるようにしたレシャが、揺れの収まった後で視線を戻す。
「なんっ…」
 大きく両目を見開いた。
 そこにあったのは、これまで見た事もないような、太い、太い、木の幹だった。近付く神兵を遮るように、 廊下全体に広がっても余りあるほどの巨大な大木。
「イーヴェヴァセレスの能力、命のあるモノは作れない欠陥だけど、成長させるのは得意なんだな〜」
「成長って…。創造は、物質しか…」
「レシャ、それって今更だよねぇ? イーヴェヴァセレスが、普通の魔然師と同じな訳ないじゃん。ま、限度はあるけどさー」
 あっけらかんと返った科白に、茫然と目の前に現れた巨木を見つめ、次いで同じ体勢のままのセレスを見つめる。
「レシャ、早く行って。私、後始末しないとならないから」
 視線を感じたのか、動こうとしないレシャに、セレスが苦笑したように呟いた。
「え、あ…ああ。わかった」
「レイトも」
「おっけー」
 レシャ、続いてレイトの気配が消えた事を確認してから、セレスは小さく息を吐き出す。
「さて、みんな、頑張ってね」
 笑みを浮かべて双眸を伏せると、再びセレスの両手が白い光に包まれる。
「変わる、還る、変ずるは理(ことわり)、その担い手たる流れを変えて、受け入れるは新たなる流れ。 変わるは新しき息吹、新たなる道の誘い手は此処に、新たなる道の導は地に落ちて汝等を受け入れる」
 一際、大きな轟音が轟いた。




 扉を潜ったレシャは、本気で茫然としていた。
 何故かベットに腰掛けているイチノと、目の前でちょっと拗ねた顔になっているカイエルがいたが、それは置いとくとし、 確かにその場所がセレスに貸していた部屋だったからだ。
「イーヴェヴァセレスもすぐに来るから、レシャ、とりあえず、一歩でもいいから進まないと〜。後がつかえるよ〜」
 レシャを追って扉を通り抜けて、その裏側に位置する机に止まったレイトが暢気に告げる。
「え、あ、ああ。…そうだな」
「そうだよ」
 そのままの顔で振り返ったレシャの目には、“神”の館で見たものと同じ赤い硝子のようなそれと、 半透明ゆえに透けて見えた、毛づくろいまで初めてすでに寛ぎまくってるレイトの姿だった。
「レーシャ、ほんっとに聞いてんのかよっ!」
 肩を掴んでカイエルが自分の方へと引き寄せるのと同時に、セレスが顔を見せる。 目の前には後ろへ倒れそうになりながら惚けた顔のレシャと、その肩を掴んでいるカイエル。
「どうしたの?」
 きょとんとした顔でそんな事を問い掛けたセレスは、二人の知っているセレスだった。
「いやーコイツが動こうとしないから、無理やり」
「そう、有り難う。立ったままだったらぶつかってたね」
「だよな〜」
 すっかり順応したのか、皆がこちらへ来る前に驚き期間は過ぎたのか、こくこくとカイエルは頷いた。
 それに肩を竦めて返してから振り返り、それを開いた時と同じようにして唱える。
The door of the tying space is closed
 その声に、パリン、という音を立てて粉々に砕けて消えた。
「だいたいさー、こっち来てから驚くなっつーの。勢い付いて倒れた上に無理やりこっち来たオレはどうしてくれるって話だ」
「カイエルがもたもたしてるからじゃん」
「おお、言ったな、レイト。おもいっきり人の顔面にアタックかましやがって!」
「だからそれは〜」
 向かって来るカイエルを避けるように羽ばたくと窓の淵へと移動する。
「逃がすかっ!!」
 更に後を追ったカイエルは、ひらりとレイトが避けたものの勢い付いたまま窓硝子に顔面を強かに打ちつけた。
「甘いねっ!」
「んなろぉおお…いてぇえええ…? あれ、何だろ? どしたんかな?」
 鼻をさすりながら、目を瞬かせて窓の外を見つめる。
 じきに夜明けとは言え、一部を除けばまだまだ人が起き出すには早すぎる時間だが、 何故か窓の外に見える大通りには昼間のように、一つの方向を向いた人が溢れていた。
「何だろ?」
 興味津々と言った風に窓を開いたカイエルに、レイトが再度毛づくろいを再開し、何故かそれを興味深そうにイチノが見つめ、 セレスがぽりぽりと頬をかく。
「―――ってぇ、何じゃありゃぁ!? うはーすっげぇえええええ!!!」
 時間的に、というよりは人間とは思えないほどの大声を上げたカイエルに、びくり、とレシャが反応して慌てたように周囲を見回す。
「お帰り、レシャ。大丈夫?」
「え…あ、ああ。―――帰って来たんだな」
 至極今更な科白だった。
「うん」
「って、こらー! そこ!! 暢気な事言ってんじゃないっ! アレ見てみろよ、アレ!! すげーよ」
 身を乗り出すようにしたカイエルが向いている方向は街の中央だ。
「いや、その窓、お前が占領してる時点で見えないから」
 冷静になったレシャが突っ込む、どう見ても人が一人以上が身を乗り出せるスペースはない。
「うがー! ほらっ、見ろ見ろっ!!」
 場を譲るようにしてレシャに向き直った姿に、肩で息を付くと、クゥを床に降ろして渋々と言った風に窓から顔を出す。
 目が点になるのに、そう時間はかからなかった。
「な、なー! 驚いただろっ!! セレスちゃんにレイトに―――て、そういえば、誰?」
 イチノにも進めたかったのだろうか、見知らぬ人物であった事を思い出して、再度問い掛ける。
「元、一の珠。あの館一番の守り手の、神兵だよ」
「―――え?」
「元々、神兵だった訳じゃなくて、あそこに館ができる時に連れて来られたみたい。そこの所の詳細は、多分、 本人にもわからないから聞いちゃダメだよ?」
「えー…と、うん。わかった。それで、名前は?」
「名前、ね。神兵って名前がないんだけど……どうしようか? これから人として暮らすにしても、名前がないと不便だし、 流石に、イチノタマって名乗るのもどうかと思うから。今は違うとかそういう意味じゃなくてね」
「イチノ、と」
 自身へと向き直ったセレスに、思案するような素振りも見せずはっきりとした口調でイチノは答えた。
「いいの?」
「はい。―――私が、今、こうして在るのは、クゥのお陰です。感謝をしても、足りない事はわかっています。けれど、せめて、 彼が確かにいた事、私にしてくれた事を、忘れないために。何度も注意したのですが、彼はいつも私をそう呼んでいましたから」
「リュデロらしいや、それ。自分の呼びやすいように呼んでたもんな、いっつも」
「そうだね」
 笑い合う二人に、穏やかな笑みを浮かべるイチノを、カイエルがぱちくりと見つめる。
「えーと、それで…? 名前は、その、イチノ?」
「そうだね」
「はい、宜しくお願いします」
「あ、うん。こちらこそ、宜しく」
 丁寧なお辞儀をした姿に、同じように頭を下げてカイエルが答えた。
「んじゃ、気を取り直して、みんな、見ろ!!」
「せっかく逸れたのに話戻すなよ〜。それに見る必要ないって」
 厭きれ返ったようなレイトの声。
「何だと! レイト、お前ってやつは、どうしていつもいつも」
「そーじゃないよ。わかってるから必要ないって言ったんだよ〜」
「は? 見てもないのにわかるわけねーだろぉ!!」
「わかるって、お約束だから」
「何じゃそりゃー!?」
「―――セレス、アレが後始末か?」
 言い合う二人をよそに、苦笑したレシャが振り返る。
「レシャ、いきなり何を言ってんだよ。セレスちゃんがそんなのだな…」
「うん、そう。此処、砂漠だしね、有効利用しただけだよ」
「そうか」
「……て、マジで?」
「うん」
「だって、木! すっげーでっかいの、どどーんと、木がいっぱい!!」
 両手を広げて身振り手振りで示す様は、まるで子供のようだった。
 街の中央に、“神”の館があったであろうその場所は、今やうっそうとした小さな森へと姿を変えていた。 何百年も昔から、そこに、緑が溢れていたかのように。
「私が生やした訳じゃないよ? あそこは、元々、“神”の力が根付いてて館があったから、それを使って、 レイトが館に入る前に巻いておいた種を育てただけ。カイエルを捕まえたのも、そのうちの一つを育てただけだよ」
「セレスちゃんってそんな事が出来るのか。すげーな。砂漠なくせるじゃん」
「あんなにたくさんを一度には無理だよ。さっきも言ったように、“神”の力があったから、その流れを変えただけ。 私個人だと、樹齢500年前後くらいまで1本育てるのが精一杯だから」
「いや、それでもすげーと思うけど、オレ」
「そう? 有り難う」
 肩を竦めたセレスを、複雑な顔をしたイチノが見つめた。
「しかしながら、銀の方」
「セレスでいいよ、みんなそう呼ぶから」
「では、セレス。お館様の力を使ったとは言っても、あれだけの事をするとなると、かなり疲労が激しいのでは?」
「うん。一週間くらいは、魔方も全然使えなくなるしね、後遺症で」
 あまりにもあっさりと返った科白に、その場が沈黙する。
「と、いう事で、私はすっごく疲れてるので、もう、シャワーを浴びて寝たいのですが?」
 その後で欠伸を一つ。
「そ、そうだな。―――イチノ、部屋、一つ空いてるからそこを使うといいよ。セレスじゃないけど、 アイツと違ってオレにはそのくらいしか出来ないから」
 窓際から離れて再びクゥを抱きかかえ、視線だけをイチノへと向ける。
「有り難うございます。色々と、ご迷惑を…、それに、クゥの事も…」
「それはもう、気にしなくていいから。後の事は一眠りしてからにして、移動してくれるかな? 部屋、案内するから。 それとカイエル、感動するのは後にして、こっち手伝ってくれるか?」
「ほぇ? あ、ああ。わかった。んじゃなーセレスちゃん、おやすみ〜」
 頷きながら部屋を横断し、挨拶しながらドアを開く。
「おやすみなさい」
 セレスが笑顔で見送って、カイエルにイチノが続いて最後にレシャが出て行った。
 ドアが閉じられてから、首に下げていたペンダントを外す。
「暫く、此処、離れられないね」
 困ったような笑みをセレスは浮かべる。
「いいんじゃない? 時間はたっくさんあるしさ、長年同じところにはいられないけど、ちょっとくらいなら問題ないんだし。 このまま去るって、リュデロの遺志に反する気がするからねぇ。 休息と思えばさ、一つの所でゆっくりするのって、ホント何年ぶりかなって感じだからさ」
 普段通りの口調だったが、その声音はセレスと同じように苦笑しているようだった。




 “神”の館が痕跡ごと消え失せ、緑生い茂る森となっていたため、サディアに住む“神”は死んだのだと、人々は噂した。 自分達の知らぬ間に、シャイターンが現れたのだ、と。
 それを表立って喜ぶ者は少なかったが、大半の住人が喜んでいたのは事実であった。
 人の住む街であるサディアは、人の手に。
 そうして、砂漠であるはずのこの場所に、緑生い茂る場が出来た事が、サディアの住人にとっては何よりもの喜びだった。 セレスのオマケ心だったのかはわからないが、森の南側に直径3メートルほどの小さな泉まで出来ていたからである。
 沸きたつ街を余所に、事の真相を知る酒場ウィンの面々は、2階のイチノに与えた部屋で顔をつき合わせていたのだが。
 そうして、後日。
 協議の結果、イチノは名前をイチノ・イツジュザーと名乗る事になった。
 将来がはてしなく有望だが性別不明な外見のイチノは、紛れもなく少年である。
 そんなイチノの新たなる人生の初期設定は、年齢は10歳、同じ苗字でわかる通りレシャの弟。山奥にひっそりと住んでいたが、 父が亡くなり、それを知らせるために、母からの便りを元に、母と兄を捜してこの街にやってきた。そんな所である。
 クゥの形見の品となった、彼の身に付けていた二つのピアスだが、自分が本当に貰っていいのかイチノは悩んだ。 クゥ本人がくれると言っていたものの、決断させたのはレシャの科白。
「弟だから父の形見でいいんじゃないか? オレだって、付けてるのは母さんの形見だからな」
 その言葉に、イチノは、年相応の嬉しそうな、けれど、どこか哀しそうに微笑んで、素直に身に付ける事にしたのだった。
 レシャがそう言ったのは、本人の遺志を尊重したのと、姿を偽る効果で金髪紅眼だった外見色は黒髪黒眼へと早代わりするし、 誰かが疑って妙な事を問い掛けてもクゥを思えば何の問題もない――年に似合わぬ悲痛な――顔をイチノがしたからだった。
 更に、浦島太郎どころか記憶喪失に近いイチノは、一般人、というか人の世間がまるでわかっていないため、 個別に学ぶよりも、同世代の友達が出来た方がいいだろうと判断し、カイエルの家――孤児院にて、 他の子供に混じって昼間の学習をする事になった。
 当初は、出会う人出会う人に驚き、他の子供達の言う嘘も素直に信じていたイチノだったが、 一週間ほどで慣れたようだった。元々、あきれるくらいの長い時間を神兵のトップとして君臨していたのだ、 記憶力も、理解力も、状況判断能力も、高かったのである。
 そのため、実際の血の繋がりは皆無だが、流石レシャの弟、と周囲に納得させるのには十分だった。
 一方のセレスも、生まれも育ちもサディアですよ、と言わんばかりに、イチノ以上に順応していたのは言うまでもない。
 そう遠くない未来に別れる時が来るのはわかっていたが、過去を懐かしむように、 つかぬまの休息を十分過ぎるほど堪能、もとい、愉しんでいた。

 最後に。
 2階の宿屋を再開してみるという思惑が完全に消えたのは、言うまでもない。


7:銀の魔方師 END

Number−銀の魔方師−   完
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