Number −銀の魔方師−
6:古の血脈を受け継ぐ者 (07-05)



 致命傷となるそれは、間違う事なく目標となるレシャの躰を突き抜けていた―――――筈、だった。
「どういう、事かな?」
 姿勢をそのままに、訝しげな声を最初に上げたのはラダナト。
「いや別に、大した事では」
 返ったのは、普段と変わらぬ口調での軽口。
「―――何、で…?」
 それらに続いて茫然と呟いたのは、レシャだ。逃げる事も避ける事も出来ない一撃とわかっていた、 それを受けると覚悟を決めるよりも早く、悟っていた。コレは死ぬな、と。
 それなのに、何故だろう。
 目の前には黒き神兵の姿、その背から生えるのは綺麗な赤に彩られた色の抜けた白い右手。
 レシャが受けるべきであったそれは、何処からか現れた神兵によって遮られていた。
「そんな科白で済ませられる行動ではないよ。クゥ、何をしたかわかっている?」
 俄かに憤りを込めた声音がラダナトの口から漏れる。
「ええ、痛いほどに。実際問題としてこのような状態で痛い訳ですが、それはこの際置いておくとして。わかっていますよ、主殿」
 腹を貫かれているというのに、クゥは気に止めた様子もなく平然と答えた。その姿にラダナトは双眸を細め、
「そうか。ならば、この後どうなるかもわかっているな?」
「当然至極」
 返った答えに、そのままの顔で勢いよく右手を引き抜いた。 反動でぐらつくもしっかりとその場に踏み止まる姿に更に柳眉を釣り上げると、
「守り手としての役目を与えたお前がまさかそのような行動を取るとはな」
 怒りを隠そうともせずに告げた。
「此処に住まう許可を頂いた事、非情に有り難く感謝のしようもない。だが、何を持ってしても譲れぬモノがあるというだけの話。 ―――それに元より、そうとは知らずに己が天敵を手の内に招き入れたのは主殿ですよ」
 その背に困惑したままのレシャを庇うようにして半歩後退しながら、クゥはそんな事を呟いた。
「なるほどな。彼女にも気付いていた、と。それに……お前もか」
「ご冗談を。私に関してだけ言うのならば、このような事態でない限り手を出すつもりはありませんでした」
 動じた様子もなく平然と答えるその姿はラダナトの気分を害するだけだ。
「先ほども申し上げた通り、決して譲れぬ事態が発生した、ただそれだけの――」
「リュデロ…?」
 苦笑したように告げられていた科白は、セレスの声で途切れる。
 その声にラダナトの視線が鋭くクゥを射抜き、レシャが更に困惑した顔を驚愕のそれへと変える。 だが当人は気にした様子もなく、更に半歩斜めに後退してラダナト越しにセレスへと視線を送った。
「相変わらずボロボロだな」
 瞳孔しかない真っ黒な瞳が愉しげな笑みを浮かべる。
「ど、して…。あなた生きて…?」
「いや何、大した事ではない。存外この身が丈夫であっただけの話」
「何で、こんな…トコに」
「やむにやまれぬ事情があっての事だ。不老な身で一つ所に長く留まるのは困難を極め―――、 ああ、私の場合、この顔からして問題があるのだが。それもこうして神兵としてならば何ら問題もない」
「お前が此処に来た目的はソレか」
 冷徹な声が、怒気を含んで吐き出された。
 暢気に会話をしている状況ではないのだが、それでも続いていた話を区切るために。
「主殿には大変感謝をしている、これは事実だ」
「―――ならば死ね」
 静かに告げられた声と共に紫色の否妻が眼前で弾けたが、 避けるでもなく半身になると背後にいたレシャを突き飛ばして直撃を受けて壁へと叩きつけられた。
「なんっ…!?」
 急に宙を舞ったレシャは自分の身に起きた事がわからなかった、 だが視線の先で紫色の光がクゥ――リュデロと呼ばれた神兵を貫くように走った事だけはわかった。 勢い付いて跳ね飛ばされたため落下して強かに背を打って大きく咽込むも、床を滑る躰を押し止めるように慌てて状態を起こしたその先で、 黒と金、二つの者が静かに対峙していた。
「クゥ?」
 不満げな声がラダナトより漏れる。それに苦笑するようにして背を壁に預けたまま、
「主殿には申し訳ありませんが、期待に答える事は出来ません」
 そんな事を呟いた。その科白にラダナトの顔が怪訝そうに歪められる。
「ああ、主殿。別に大した事ではなく。―――彼女に関しては、私は何も。ただ一つだけ」
「何だ?」
「彼を見逃しては頂けまいか?」
 真っ直ぐに自身を見つめてそんな事を口にしたクゥに、ラダナトは更に怪訝そうに眉を顰めた。
「意味がわからないな。君は己が存在する理由を自ら否定している」
「主殿、それは否だ。これは彼女の意思、我々にも自由であれと。己がままに行動し、己が心を偽る事なく、守るべき者を守れと」
 淡々としたクゥの科白はラダナトの気分を害すだけだ。
 同じモノでありながら、成り立ちからして違う者。
 立場を同じくしながら、別の目的を持って動く者。
「そう。君にとっては、それがあの紛い物なのか」
 厭きれ返ったようにされど怒りの篭る声音で紡がれた科白に、 軽く苦笑して壁に預けていた身を正したクゥは真っ直ぐにラダナトを見つめ返し、
「そういう事になる」
 断言した。
「そう」
 しっかりと自身を見据えての科白に、ラダナトの詰まらなげな声が漏れた。
「ちょっと待て、勝手に其処で話、進めるなよ。何だよお前、行き成り出てきて――」
「意を唱えている暇があったら逃げる算段でもしたらどうだ?」
「そういう問題じゃ――」
「二人仲良くこの地を去るといい。―――――永遠に」
 レシャの科白を遮るように、薄い笑みを浮かべた。
 胸部に手を当て初めて貫かれた躰を気にしていたクゥは一瞬だけ双眸を細め、
「丁重にお断り申し上げる」
 声に合わせて、レシャの周囲を取り巻くように、その身を守るように焔が立ち上がった。
「ああ、それから主殿。誠に申し訳ないが」
 ちらりとレシャを一瞥し、
「そのような時間もないようだ」
 苦笑した。
 その科白にラダナトは双眸を細め―――、何を思ったのか、大きく目を見開いた。
 止めの一撃を放とうとしたその刹那、周囲に広がったのは彼の存在を告げるモノ。
 再びこの部屋に溢れるは、何処までも何処までも優しく、そして哀しみに満ちた気配。
「何だ、コレ…?」
 驚きの声がレシャから漏れた、初めて感じる、人とは思えないその気配。だのに何故か懐かしさを感じさせるモノ。 茫然と驚きに目を瞬く姿にクゥは小さく肩を竦めた。
「セレスティア…?」
 先ほど以上にしっかりとその存在が此処にある事を告げるそれに訝しむように声を漏らすと、 ゆっくりとラダナトは振り返り―――――何故かその顔は上空を仰ぎ見た。
 その視線の先には、羽ばたく者。白き翼を広げ、白銀の静かなる双眸でラダナトを見つめる姿。
「どう、して………、セレス――」
 ずぶ――――――。
 再び、モノを突き抜ける鈍い音がして、ラダナトの科白は止められた。
 驚きに目を見開いたまま、非常にゆっくりと、自身を省みるようにして下げられた視線に移るのは見事は白銀の髪。
 双眸を細めて見つめるクゥの眼前にはラダナトの躰を突き抜けて覗かせた子供の腕が赤く染め上げられている、 その手にほんのりとピンク色の臓物をしっかりと掴み鮮血を滴らせる管を伴って。
 鈍い音に反応するようにして顔を巡らせたレシャの視線の先で、肩口までしっかりとラダナトの躰を突き抜いたセレスの姿が映った。
 時が、止まったかのように誰も動かなかった。
 唐突に起こったそれに対処しようもなかったのか、する気もなかったのか。
 静かな時間が流れ、沈黙を破ったのはラダナトの漏らした小さな呻き声だった。 その後、何を思ったのか両腕をセレスの背に回し、それがとても大切なモノであるかのように優しく抱きしめてから 身を屈めるようにして、大量の鮮血を吐き出した。
 一層深くその身にセレスの腕が喰い込んだが気にするでもなく何処か満足げな表情を浮かべる横顔に、 その白銀の髪に己の血が付かぬよう気遣った姿に、レシャは困惑の表情だけを浮かべている。
「…そうか」
 小さな、本当に小さな声でラダナトが呟いた。
 それからゆっくりと、限りなく優しく、本当に心からそれが愛しいのだと言ったようにセレスの白銀の髪を撫でて、 ずぶずぶと音を立てながら後退するようにしてその身から腕を引き抜いて行く。
 一際大きな音がして、完全に腕より解放されたラダナトは視線を俄かに落としてそこに残るモノを見つめた。 自身を現すモノ、自身を形作っていた、自身の基盤となっていたモノ。人で言う所の心臓にあたるそれは、 彼等にとってはこの世界に在る事をプログラムされた、その源。
 何処か哀しげに、それでいて満足そうな笑みを浮かべ―――――スローモーションのようにその場に崩れ落ちた。 ぶちぶちと、躰より引き抜かれた臓と躰とを繋いでいた血管とも、コードとも呼べるそれが引き千切られる音をBGMにして。
 全ては一瞬とも呼べる短い間に起きた事、それでも長い長い時間が過ぎたようにも感じられる。
「―――セレス」
 半ば茫然とした声でレシャが声をかけた。
「大丈夫、なのか…?」
 何処か不安そうなその声は、無表情になった顔でじっとラダナトを見つめている姿に言いようのない何かを感じての事。 部屋中に満ちるその気配も、レシャ自身の気持ちを変に高揚させる。
「大丈夫」
 その手にほんのりとピンク色の臓を手にしたまま、抑揚のない声が返った。
「傷は…?」
「治ったから、平気」
 再び単調な声が返る、その表情は変わらず視線もラダナトを見つめたままだ。
「そう、か。―――君が、シャイターンか」
 苦笑するような、自嘲するような声が、床に伏したラダナトより漏れる。 ゆっくりと瞼を開いて流すように視線を送った瞳に映るのは幼い姿、そして、それに合わせるかのようにその肩に舞い降りる一羽の鳥。 その光景は幼き姿である事を覗けば、彼――彼らにとって見慣れたものだったのだ、遥かなる昔には。尤も顔は面影を残すのみで、 彼等の記憶にあるソレとは全く違うモノなのだが。
 ラダナトの科白に、クゥが苦笑し、レシャが驚いたようにセレスを凝視した。
 シャイターン、人々が密かに噂する“神”を殺す事の出来る唯一の存在。
「さぁ? 私にはそんなつもりないけど」
 抑揚の無い声が否定した科白にラダナトは口元を緩め小さな笑みを浮かべる。 何か眩しいモノでもその眼にしたかのような表情で、
「そうか…。そうだな……確かに」
 頷くように、次いで納得したかのようにして、同意した。 そんな姿を真っ直ぐに見つめ返したままセレスは小さく肩を竦めると、
「それにどちらかと言えば、アヴェンジャーだと思うのだけれど」
 自嘲気味な笑みを浮かべてそんな科白を口にした。
「―――なるほど」
 ラダナトは全てを悟ったかのような声音で頷く。
 セレスが口にしたそれは、今は語られる事のない言葉、嘗てこの世界に広く知られていた言葉。
 復讐者、報復者を意味する言葉―――――アヴェンジャー。
 それは神に敵対する者を指すシャイターンと同じ、古き言葉だ。
 “神”にとってその身を滅ぼす事の出来る存在は確かに己に敵対する存在なのだからシャイターンに相違ないが、 セレスにとっては否だ。“神”を神とは同一視していないし、そもそも、その在り方からして彼等“神”とは相反するモノ。 彼女にしてみれば、自身をシャイターンとする訳もないのだ。
 その身も行動も、神に敵対している訳ではないのだから。
 そうして自身を復讐者と公言した理由も。
「君が、そうする事で……全てを終わりにすると?」
「そんなエラそうな事、言わない」
 苦笑するような声音に返ったのは、余りにもはっきりした否定の科白。
「それは私の範疇じゃないし、そこまで面倒見る義理もない。―――私はただ…、返して欲しいだけ」
 失ったモノは多すぎて、全てを取り戻すのは不可能だと理解していた。過ぎ去った時間が二度と戻らないのと同じように、 失われた命は還らない。
 それでもなお望むのは、ただ一つだけ。
 セレス自身が今も此処に在る、絶対の理由。
「彼が、赦さないよ」
「関係ない」
「そう」
「それに……私はアナタ達と違うから、無理やり奪ったりしない」
 そう口にしてから、微かな笑みを浮かべる。
「ねぇ、スリーラダナト。長い長い時を独りで過ごして、何とも思わなかった?」
 いつか聞いた、否、彼が聞いた事のない優しい声音でそう問い掛けた。
「独りは、淋しいでしょう? ―――アナタに淋しいなんて感情、わからないかもしれない。でも…」
 一瞬だけ押し黙ると、
「もう、いいの。独りじゃなくていい、独りで頑張らなくていいの、これからは一緒」
 苦笑というには優しくて、微笑みというには哀しすぎる顔。
 その姿に、告げられた科白に、ラダナトは驚いたように目を見開く。
「―――…一緒?」
「うん」
「これから?」
「うん」
「ずっと…?」
「うん。―――アントスも、ラクエも、セィスも、オクタも、ヌフィレスも、ウンディスも一緒だよ」
 セレスの口から次々と紡がれた名に、ラダナトが嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「そうか、みんな……君の所に…。一緒に、いたのか」
「うん」
「やっと、わかった。あの感覚、あれは……やっぱり君に会ったからで、リンクが途絶えたからその後は伝わってないんだね」
 満足そうに呟いて、ラダナトは静かに両の瞼を閉じる。
「―――クゥ、君は自由だ。好きにすればいい。…ああ、元よりその身は自由であったか?」
「如何にも。―――主殿。短い間ではあったが、世話になった」
 相変わらずの口調で返るのは横槍を入れた時から変わらぬ感謝の言葉で、 何とも言えぬ笑みを浮かべたラダナトの左手が自身の胸元へと移動する。
 そこにはぽっかりと空いたままの、穿孔。
「正直、お前が羨ましい」
 ぽつりと吐露した科白に、クゥは苦笑を返した。
「僕が消えれば、此処は崩れる。早く離れた方がいい、余計な事に気付かれる前に」
 怒りも哀しみも、喜びも愉しみも、全てをおいて、還る。
「そうする。―――またね、ラダナト」
 セレスのその科白に、もう一度満足げに微笑んで―――――静かに、その動きを停止した。
 床に横たわったまま動かなくなったラダナトを見つめたまま、セレスもクゥも動かなかった。ただ独り、 これまで茫然と成り行きを見守っていただけのレシャがゆっくりとした動作で立ち上がり、セレスの傍へと歩み寄る。
「セレ――」
「私の事より、自分の怪我の心配して欲しいんだけどね」
 すぐ傍まで近付いたレシャの呼びかけを遮り苦笑交じりにそんな事を口にしたセレスの手の中で、 白い光に包まれたラダナトを支えつづけた基盤――心臓が、小さく小さく、収縮して行く。 そして、それに合わせるようにして、風に砂が晒されるように、風化するように、ラダナトの動かぬ躰が崩れ始める。
「なんっ…」
 驚きに目を瞬くレシャをそのままに、さらさら、サラサラと。砂が風に浚われる音を響かせながら。
 やがて、セレスの手の中にあったモノが2センチほどの小さな赤い結晶へと変わる頃、 まるで初めから何もなかったかのようにラダナトはその存在の痕跡を何一つ残す事なく消え失せていた。
「彼らの躰はこの世界に存在した瞬間に固定されたモノだから、その元を失えば維持する事は不可能で、なかった事になるから」
 怒りとも哀しみとも取れる声が、レシャの疑問に答える。
 答えにならない答えだが、それが唯一にして絶対の、彼らを表現する言葉に他ならず、 その在り方を命の循環によって創られ紡がれて行く人間には理解出来ない事でもあった。
「元は、コレなんだよ。小さな、小さな、赤い塊」
「同じでありながら、始まりからして違えるモノ。在り方が違うのは至極当然か」
 自嘲するようなセレスの科白に、同じ声音のクゥの科白が続いた。
「それって…」
「鍵だよ」
 呟いたレシャに、その先の言葉を待つ事なくセレスが断言する。
 事実レシャが問い掛けたかったのはそれとは違うのだが、 ラダナトが消えたその場所を見つめたまま再び無表情になった姿に出かけた言葉を飲み込んだ。
「よもや主殿がオリジナルとは、いや、何があるかわからんな」
 溜息交じりにクゥが呟き、セレスが怪訝そうに少しだけ眉を顰める。
「リュデロ、此処で何してた訳?」
「いや、大した事はしてない。ただの居候だ」
「何でこんなトコに…」
「先ほども言ったが、聞いてなかったのか? 一つ所に長く留まるには不便な躰なのでな」
「それは聞いたけど」
 ちらりとクゥを一瞥するように視線を走らせ、
「何でよりによって此処なのかって聞いてるのよ」
 睨むようにして問い掛けた。
「私がいても違和感あるまい」
 あっさりと返った科白にセレスは一瞬だけ何か言いたそうな顔をしてから、はあぁっと大きな溜息を吐き出す。 それから眉を顰めたまま、
「それから…レシャ。怪我の方は血も止まってるし、もう平気みたいだけど。大丈夫って言ったのにこんな所まで来るなんて 大概無茶するよね。それとも、アレかな? そういう無茶振りはイセンの影響なのかな?」
 困ったように肩を竦めたセレスの口から出た固有名詞にレシャが目を瞬く。
「イセンって…」
「レシャのご先祖様の名前だよ。ヴァイジュザーを去った、最初の子」
 あっさりと返った科白にレシャの表情が強張り、それを見計らったかのように顔ごと向き直ったセレスと目が合う。
「―――まさか、それを忘れてて、その姿だけって事はないよね…?」
 固まった顔のまま自身を見つめるレシャの姿に不安げな声が問い掛けた。
「それはあるまい」
 何故かクゥが答え、
「レシャヴェル、伝える事は伝えておいた方がよいのではないかと思うが」
 こちらもあっさりとした口調で続けられた科白に、レシャが勢いよくクゥを見やる。
「だから何だってそんな事を知って――」
「全ては、シャルアの意思のままに」
 科白を最後まで言わせる事なく瞳孔しかない瞳で真っ直ぐにレシャを見つめ返すとそう告げて、
「時間がない、早くした方がいいのではないか?」
 困惑とも憤りとも取れる顔をして押し黙ったレシャに小さな笑みを浮かべる。
 その姿に軽く唇を噛み締めてクゥを一睨みしてからセレスへと向き直ると、
「セレス」
 呼びかけて、一呼吸。
「オレの名前は、レシャヴェル・イツジュザー」
「うん、知ってる」
「母さんから、―――母さんも、だけど。ずっと……第一子は代々、必ずこの姿」
「うん」
「姿と一緒に受け継いできたのは、名前。オレの本当の名前は、レシャヴェル・イセン・ヴァイジュザー。 その地を離れた遠き先祖イセン、それ以後、第一子は代々その名を受け継いできたと、いつか、その国に帰るために。 今はもう何処にもない、かつて在った、ヴァイジュザーという名の国へ帰る時のために」
 苦笑交じりに告げたレシャに、セレスは何処か嬉しそうな笑みを浮かべ、
「よかった」
 小さく声を漏らした。
「ずっと帰って来なかったから、もう忘れちゃってるかと思ってた。そっか、約束…守っててくれたんだ」
 安堵よりも、申し訳なさでいっぱいといった風な表情でレシャを見上げ、
「私は、守れなかった。―――帰る場所、無くなっちゃったのにね…」
 今にも泣き出しそうな顔で、哀しく儚げに呟いた。
「セレス…」
「それはお前だけの責任ではあるまい」
 溜息交じりのクゥの科白に、セレスは首を左右に振り返す。
「あそこを守るのが私の役目だったのにそれを果たせなかった、これは私の責任だよ」
 自身の咎、戻らない過去、全てはたった一つの過ちから。
 奪われた命、覆せない時間、全てはたった一度の油断から。
 過去に戻る事も出来ず、だからと言って先に進む事も出来ない、全てがあの瞬間に時を止めた。 現在も未来もなく、其処に在るのは過去だけ。
「そうか」
 静かな声でクゥは頷き、押し黙った。
 暫し重い沈黙が流れ、
「―――セレス」
 レシャが口を開いた。
「もう一つ、大切な事がある。むしろこれを言わないとならない、重要な話」
 苦笑してそう告げたレシャに、悲痛にも似た眼差しを返して、
「何…?」
「母さん、言ってたよ。この世界に生を受け、この時代を確かに生きた。それは初めから終わりまで、 素晴らしい奇蹟の連続で、とても幸せだったって。母さんの親もそうだったし、そのまた親もそうだったって、 心の其処からそう思うから、どうしてもそれを伝えたいからずっと旅を続けてたって聞いてる」
 その言葉にセレスは何故か泣きそうなほど――哀しいというよりは嬉しそうに――その顔を歪ませて伏せた。
「…そっか」
 やっと漏らした声も、小さく掠れて震えていた。
「そうだ。オレも、そう思わないでもない」
「尤もお前は、その意思を継いで旅に出る気など皆無だったように思えるが」
 ぽつりと小さく入れられたツッコミにレシャが目線だけで一睨みするが、クゥは肩を竦めるだけだ。
 ややあって、
「―――帰ろう」
 その手にしっかりとラダナトの結晶を握り締めて、傷一つない躰ではあるが痛々しい跡を残す服をそのままに、
「此処は、ヒトのいていい場所じゃないから」
 そう呟いてから顔を上げたセレスに涙はなく、年相応の可愛らしい笑みを浮かべていた。


6:古の血脈を受け継ぐ者 END

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