静かな声に従うようにして世界はその姿を変えた。
小さな、とは表現しにくい規模ではあったが“神”――ラダナトが座しているにしては手狭とも言えたその部屋は、
今は広大な面積を誇っている。むしろ、そこは部屋などではなく、室内でもなかった。
夜明けは近い時間帯ではあるものの、未だ俄かに東の空が白んでいるだけというのが実際の時間帯。
しかしその場所には天井などなく、天高く、丁度真上と呼ぶ位置に太陽が光り輝きその存在を知らしめており、足元は床ではなく、
砂地だ。
視界に入るのはどこまでも砂地――否、砂漠だ。遥か遠くには地平線を望む事の出来る、どこまでもどこまでも
果てしなく広がっているかに見える砂漠。
訝しむようにその瞳を歪める姿に、
「―――懐かしいでしょう?」
クスクスと愉しそうな声がセレスから漏れる。
その声に合わせるようにして視線を走らせたラダナトは、
セレスを視界の隅に捕らえようというその瞬間に有り得ないモノを目にして、それを凝視するかのようにして見開かれた。
その様子に、にっこりとした笑みを浮かべ、
「どう? 何年ぶりの光景かは知らないけれど」
つまらなげにそんな事を呟いた。
しかしそれが聞こえなかったのか、はたまた答える気がなかったのか、表情を凍りつかせたままで一点を見つめている。
「反応なし? つまらないんだけど。―――何度も、何度も此処へ来たのよ。私。だって始まりの場所だものね」
銀の双眸を細めると、ラナナトの視線の先を肩越しに振り返るようにして同じモノを見つめた。
そこに在るのは周囲と何ら変わらない砂の風景だったが、只一つ、ラダナトの見つめるそこだけが他と違っている。
赤茶けたというよりはすでに茶色と言っても過言ではないほどに時を経たそれは、斜めになってはいるが天を射抜こうかという程に
先の尖ったモノだ。それに続くのは、かろうじてそれが昔は赤だったと示す名残を部分的に僅かに止めたに過ぎない骨組み。
そしてその骨組みに連なるようにして四角い部屋が設けられている、とは言っても傾いているせいで半分以上砂の中に埋もれているのだが。
「この状態が、最後に見た風景ね」
一瞬だけ哀しげな色をその瞳に宿したセレスが、自虐的な声を漏らした。
「ねぇ? スリー、ラダナト。何の反応もなし? それとも、私、勝手に先に進んでもいいって事? せっかく、
この場を用意したんだから何かしらの返事くらい、してくれてもいいんじゃない?」
「―――何故、こんなモノを」
ぽつりと表情はそのままで声を漏らした。
「今更、何の意味があるというのだ。このようなモノ―――今はもう、ない」
「そうよ、ないわ。今はもう砂の中だもの。風化しちゃって、元の姿なんて止めてなかったし、色だって変わっちゃってた」
「我々には、何の関わりも――」
「それが正しい時間の流れ」
科白を遮るようにセレスは呟いた。
「偽りの時間、そんなものは必要ない。正しい時間の中、それが回る時の輪。形あるものは、いつかは必ず失われて行く。
それが正しいのよ。アレみたいに」
「東京タワー…と、言ったか。確か。懐かしむも何もないな、私にとっては。第一、そのような時間の流れなど…
―――我々には関係のない話だ」
視線はそのままで毅然と答える姿――先ほどまでの驚きの表情を消して――俄かに厳しい顔になったラダナトに、
セレスはあからさまな溜息を返す。
「ホント、いつまで経ってもわからないのね」
諦めにも似た呟きを漏らし、その肩に留まるレイトを優しく撫でる。
「尤も、だからこそ…―――こんな事になってるんだけど」
自嘲気味の科白に返事を返すようにして大きな翼を広げてレイトが飛び立ち、それを合図としてかセレスは地を蹴った。
「セレスティア…!」
「懺悔の時間だと言ったでしょう!?」
驚きの表情でその突進を見つめる姿に薄笑みを浮かべて叫び返すと、瞬時と呼ぶに相応しいスピードで十メートルの間を詰めるて
渾身とも呼べる力――否、その手に全霊を込めるようにして力を上乗せして殴りつける。
バチッ――、と静電気が一瞬走ったような音が響き、ラダナトの目の前で見えない壁でもあるかのようにしてその拳は阻まれる。
だがそうなる事はわかっていたのか、全力を込めたセレスの表情に変化はない。
ただ、拳を遮るようにして間に在る見えない壁を押しのけるようにして拳はそこに止められたままだ。
緊張にも似た面持ちでそれを見つめながら非常にゆっくりとした動作で左手をセレスへと向け、
「セレスティア、何故こんな事を?」
そんな今更な事を問い掛ける。
だが答える様子はなく、小さな舌打ちを一つ返して何もない空を蹴ると後方へと跳躍した。
それと時を同じくして、今までセレスのいた場所がぼこっと音を立てて地面ごと沈み込む。ラダナトのすぐ目の前に一メートルほどの
小さな半円の穴が口を開いた。
「そうか…。答える気は、ないみたいだね」
静かに瞼を伏せて呟く。その姿をセレスは冷ややかな眼差しで見つめ返しているだけだ。
「彼の嘆きの理由が、やっとわかった。君がいないのでは、意味がないからだ。―――姿を消したのも、そのせいか」
「別に消してないわ」
「首都に彼はもういない。知らないのも、無理はない話だが」
「そういう意味じゃ、ないんだけどね」
独り言ちるように呟いたセレスは、無造作に左手を振り上げた。
それに合わせるようにしてその足元の砂が一気に巻き上がると、ラダナトとの間に視覚を遮る幕となる。
「そんなもの意味がない、誰より君がわかってるのに」
「別にそういう意図じゃないわよ。―――というか、凄く笑える話ね。自分の主の居場所すら知らないなんて」
「彼が今、何処にいるか…誰も知らない。その嘆きが深すぎたのだろう、心すら閉ざしている。…無理もない話だ」
「ホント、笑えるわね。彼はずっと同じ所にいる。というよりも…きっと、一生そこから動かないんじゃないかしら?」
嘲笑うかのような声を上げたセレスに、未だ舞い上がったままで視覚を遮る砂を顰めた眉で睨むように見つめる。
「まるで君は知っているかのような口ぶりだ。我々にすらわからぬものが、何故君にわかる?」
「私からすれば、わからないあなた達の方が滑稽ね。―――彼はずっと、同じ場所。手に入れたモノを手放さないために。
その傍にずっといるだけ。何年経ったかわからないけれど」
その声には俄かに怒りが込められているように感じ取れた。
「全然動かないし、というよりも動く気すらないだろうし。あそこは封じられた場所だから、感覚で捜しても見つかるわけないわね」
淡々と続けられた科白にラダナトは一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに喜びにも似た表情を浮かべる。
「なるほど、君のいる所か」
「その言い方は多少可笑しいと思うんだけど」
「―――君風に言えば、入れ物、その傍…そういう事だな」
「そうね」
「では、君を捕らえて彼の元へ連れて行くとしよう。彼の嘆きもそれで終る」
黄金色の双眸が、愉しげに細められた。
「出来るものならね」
同じような含みの声音が返される。
「元の君ならまだしも…その仮初の躰で果たしてどこまで出来るのか。子供の姿か、確かにわかり難くはあるが――」
両手を胸元で合わせるとその双眸を伏せ、
「急造ゆえか、如何なる法で手に入れたかは知らんが―――安定する以前の躰では、十分とは言い切れまい」
静かに告げ、膜となって未だ舞い上がる砂の中へその身を投じる。砂に塗れるかに思えたラダナトは、
その身が近付くのに合わせて通り道を作るかのように二つに割れた砂の先に幼さを残した銀の髪を捕らえ薄く口元を歪めた。
次いで自分をしっかりと見据えるその双眸を見つめ返し、両手を合わせたまま翳すと一気に空を切るようにして振り下げる。
それは到底セレスに届く距離はでなく空気の鳴る音だけが響いたが、
「芸のない」
小さな溜息にも似た呟きを漏らしたセレスは無造作に右手を振り上げて何かを支えるような体勢を取る。
音にすれば、ずん、といった所か。その姿勢のまま、セレスの周囲が何か重いものでも乗ったかのようにすり鉢状に沈み込んだ。
そのまま右手をラダナトへと向かい振り下ろした、まるで何かを投げつけるかのようにして。
細めた双眸の先で、バチッ――と何かがショートするかのような音がして、見えないそれの存在が消え失せる。
そのまま一歩を踏み出すとその手に直接セレスを掴もうとでもいうかのようにラダナトはその手を伸ばした。
「触らないで」
セレスは声を発しただけだった。
だがその手は振り払われたかのように弾かれ、ラダナトは俄かに眉を顰める。
「―――多少は使えるようだ」
感嘆にも似た声をそのままの表情で漏らし、
「何処までいけるか試してみるか?」
愉しそうに呟くと、獲物を狙う蛇のように歪な笑みを称えた眼差しで自身を睨む姿を見つめた。
途端に周囲の空気が一変する。否、空気の質が変化したと言った方が正しい。砂漠に相応しい照り付ける太陽は、
眩しいながらも湿度は低くただ只管に暑いと感じるだけのものだったが、その表情の変化に合わせて周囲を包んだのは
酷く冷たいと呼ぶには語弊があるほどに粘着した感のあるどろりとした冷気だった。
それに一瞬だけ顔をしかめたセレスは自身を見つめるラダナトの視線に嘔吐感にも似た何かが競り上がってくる感覚を覚え、
「気分が悪い」
小さく、されどこの上なく不満そうに呟いた。
「―――移動したか」
小さく、声を漏らす。
あれからどれほどの時が経過したのか、そんな時間の流れは彼にとっては意味のないものだった。幾度、幾年、人は移ろい、
世界が姿を変えようとも、決して変わる事のなかったその身の全て。
そう、あの時までは。
「世界が色を変えた、か…。なるほど、確かに」
懐かしむように、されど哀しげに黒一色の双眸を細める。
脳裏に浮かぶのは、変わる事なく哀しげにそして優しく微笑む姿だ。今は失われた、記憶の中だけの存在。
かつん、と大きめの瓦礫が足に当たりその場で立ち止まる。
粉塵は消え、そこにあるのは破壊の跡。
大きく歪んだ壁に苦笑して、前方の天井と床をぶちぬいて開けた大きな穴に視線を送ると、
「もう少し、加減が出来ればいいのだがな。―――仕方ないか」
愉しげにそんな事を呟いた。
それに合わせて、背後に二つの足音が迫るのを耳にし、肩越しに振り返る。
その視界に映るのは、自分と同じ黒き服を全身に纏う姿――異形。この館に住む“神”を守る、それを存在意義とする神兵。
「此処にはもういないようだ。全く、場を考えて加減というものをもう少し知るべきだな」
すぐ傍まで走り寄って来る者に何の感慨も浮かべぬ淡々とした声でそう告げる。
「何処へ移動したと?」
「私が来た時にはすでにこの状態だった。―――ニノ、サンノ、現状はどうなっている?」
「聞いていないのか?」
「だから此処にいる」
「そうか」
頷くようにして歪んだ壁を見つめると、
「侵入者は二人。何者かは現在の所不明」
忌々しいモノでも目にしたかのように細める。
「それは聞いた。二手に別れた所までな」
「クゥ、一の珠からは何か?」
自身を一瞥するようにして呟かれたニノの科白に瞼を伏せると、
「イチノに持ち場に戻るよう言われたので、お前を追ってすぐに出たからその後の動きは知らない。言われた通り大人しくしているつもりだったが、余りにも騒がしいのでね」
「そうか」
「一人は階下に、もう一人は此処で足取りが途絶えている」
後に続くようにして、サンノが黒き双眸に視線を合わせるかのようにして自身とは異なる、同じ立場にある者を見つめた。
「―――足取りが途絶えた、とは?」
「珠(ギョク)に反応しない」
一歩前に進み出て歪んだ壁に手を伸ばすようにしてニノが返す。
「なるほど」
小さな頷きに、二人の視線が集中する。ニノは壁に手を当て肩越しに振り返るようにして、サンノはその横に並ぶようにして。
「貴公はいかがに思う?」
自身よりも少し背の高いクゥを見上げるようにして問い掛ける。
「役目を果たすだけだろう。それが存在し、此処に在る唯一の理由であるならば」
「我々神兵はそうだ。だが――」
「私もそのつもりで此処にいるのだが。それとも…―――生まれが異なる私は、お前達からしても異端と言う事か?」
「そういう意味ではない」
「別の場所で出るとも、同じであるならば関係はない」
ほぼ同時に否定の言を口にする姿に薄っすらと黒き双眸が細まった。
「では、成すべき事を成すだけだ。お二方はどちらが宜しいかな?」
愉しげに、愉しげに、黒き瞳に笑みを浮かべて問い掛ける。その姿に、その瞳に、二人は瞬間沈黙してから、
「行方のわからぬ状態では何の手立ても打ちようがない。反応がないのだ。―――この館にはもういないかもしれぬ」
サンノが重い口を開いた。
「可能性の一つとして、それは有り得るな。だが、現状で判断するにはまだ早いだろう。能力の高い者であれば…、
或いはこの場所を熟知している者であれば、己の存在を我等に示さぬ法も知っているだろうからな」
「確かに」
冷静に状況を分析するクゥに、サンノは素直に頷く。
「―――我は下を押さえるとしよう。共にやってきたのだ、片割れを捕らえれば出てくるやもしれぬ」
壁から離した自身の手を見つめるようにしてニノの声が続いた。
「何か感じたか?」
声に合わせてゆっくりと視線を巡らしたサンノは、珍しいその姿にそう問い掛ける。
「覚えのない気配だ。同時に酷く危ういものを感じる、確かに強い存在を示しているが…」
押し黙って己の手を睨むようにして細められた瞳に、
「が、何だ?」
歩み寄るようにしてサンノが科白の先を促した。
「まるで、ないモノのようにも感じる。見た目にはこれほど館を変形させているというのに、
館自身には己が姿を変えているという自覚がないようだ」
訝しむようにして上げられた声に、すぐ傍に並ぶにまで歩み寄ったサンノの赤い瞳が同じようにして歪められる。
その背後で、愉しそうに笑う黒き瞳は薄っすらと口元を歪めた。
「では、私はこれの後を追う事にしよう。たかだか人間相手に、揃って行く必要もないだろう?」
背に掛けられた言葉に、二人は揃ってクゥを顧みる。
「何の痕跡もない、わかっているのか?」
「珠にも反応がない」
「わかっている。だから私が追おうと言っているのだ。もとよりギョクを受けていないのだ、反応の有無は私には関係あるまい」
「確かに…」
「クゥ、それでどうやって追うと?」
クスリ、と小さな笑みをその口元に浮かべ、
「ニノが痕跡に直接触れてもその気配の判別が出来ないという事は、館を通じて物事を感じるイチノにも恐らくわからないだろう」
「わかっているのなら――」
「こういった場合にこそ私が此処にいる意味があるというもの」
ニノの科白を遮るようにして、悠然とした口調で呟いた。
「サンノ。階下にいるもう一人は、どの辺りにいる?」
「ニ階。位置的には正面玄関の近くだ、今は」
薄っすらと双眸を細めて呟き、
「此処で消息の途絶えた者は、ソイツと共に館へ侵入して来た。だが二手に別れた。私がイチノの元にいた頃から考えれば…一直線に此処へ向かっていたと見るべきだろう」
「つまり?」
「時間を見て、一本の道も違える事なく―――主殿の元へ向かっているように思えるが?」
薄笑みを浮かべたままでの科白に、二人の瞳が細められた。
「なるほど。主への道は我々の方が熟知している」
「そういう事だ」
「しかし、クゥ。反応が出てない以上は」
「ああ、それなりに使える相手と見るべきだろうな」
何の感慨も浮かべぬ声音と表情で呟かれた科白に、サンノがニノを一瞥する。
「二の珠、我はクゥと共にもう一人を追う事にする」
「三の珠?」
「お前も一の珠からギョクを預かっているだろう? 私も預かっている。相手が二手に別れている以上、我々も別れた方がいいだろう」
「しかし――」
「何、相手の正体が何であれ気にする事もあるまい。クゥがいる」
赤い双眸が、長身のその姿を見つめた。彼等とは少々異なる立場にいる神兵、その姿も、瞳孔のみの瞳も、特異なモノ。
サンノを見つめ、次いでクゥへと視線を移してから、ニノは小さく頷いた。
「了解した、二手に別れるとしよう。三の珠、お前には伝えていなかったが、現在、主に来客中だ。早々に片付けるとしよう」
「来客? 客人が多い事この上ないな、珍しい事もあるものだ」
その科白にクゥが小さく笑った。
「クゥ」
咎めるようなニノの声に肩を竦め返すと、
「失礼。―――では、そのように?」
「ああ、こちらは任せる」
小さな頷きを返し、クゥ、次いでサンノへと視線を送るときびすを返す。
「では、失礼する」
背を向けたまま儀礼的に単調に告げると、来た時と同じようにして走り出した。神兵特有の、人間離れした素早い動き。特に、珠を預かる身である彼等のそれは、機動力だけなら戦闘を主とする神兵すら凌駕する。
一陣の風が吹き抜けるかのようにして、ニノはその場を後にした。
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