館を神兵に先導されるようにして歩いていたセレスは悲痛にも似た眼差しで周囲を眺めていた。
そこに在るのは、今、この時代のものではない。はるか遠い過去、すでに失われて久しい過去の遺物に満ちた空間。
そもそも、この建物からしてそうだ。砂漠にあるからなのだろう、その様式はかつて砂漠に住んだ貴族の屋敷を真似たものだ。
白亜の壁に、建物の一番上の部分には黄金色にも似た色の球根のような形をしたもので飾られている。
そして建物の中もそれに習ったものだ。両側には数メートル起きに柱が聳え、その間には何らかの美術品が置かれていた。
高すぎると思われる天井を見上げれば、所どころに天窓のようにしてぽっかりと夜空が顔を覗かせている。
(こんな過去の遺物を引っ張り出して…。本当に、馬鹿なんじゃないの…)
忌々しいものでも見るようにしてセレスは唇を噛み締めた。
前を歩く自分と背丈のあまり変わらない神兵は相変わらずだ、この館へと入ってから一言も口を開かない。
始めの頃は、馬鹿正直な子供よろしく周囲を眺めては小さな声を上げていたセレスだったが、
何の反応も示さない神兵にほとほと厭きて今は同じように無言で歩いていた。
周囲に視線を送れば送るほど、気分が悪くなる。
酷い吐き気を覚え、同時に怒りも込み上げて来た。こんな所に居たくはないと何度も叫びそうになるのを、
自身を戒めるようにして押さえ込んだ。
まだ、早い。
拳を握り締め、何度それを脳内に浮かべては打ち消して来たかわからない。
それでもまだ戻る訳にはいかないのだ。神兵が酒場へと現れた目的はセレスを主である“神”に会わせるため、
それが達成されないまま戻れば素直に従って此処まで来た意味を失う事になる。尤も望まぬ事態を招く事は必須、いや、
それ以上に事は大きくなり全く関係のない赤の他人を巻き込む事にも繋がるだろう。
それだけは出来ないと、セレスは自身を押さえ込んだ。
関係のない人間を巻き込む事だけは、避けたい。これはセレスにとって自身だけの問題だ。
顔を伏せて、小さな息を吐き出す。
早く、こんな事を終わりにしたかった。
出来れば、笑顔のままで愉しい思い出だけを残して酒場を後にしたかった。
別れ際の二人の顔がふいに思い出される。二人とも、まるで自分事のように受け止めて、沈痛な面持ちで、悲痛に歪んだ顔で、
セレスを見送った。
正直、そんな姿は見たくなかった。
ゆきずりの他人なんてどうでもいい旅人であるセレスは、これまで旅して来た中で多くの人間に出会い、
そして別れて来た。誰とも同じ道を歩めない、子供のセレスに優しい言葉をかけて大人になるまでここで暮らさないかと言われた事もある。
愉しければ愉しいほど、自身を思って告げられる優しい言葉に、別れは辛いものであった。
それでも、成さなければならない事があった。
たった一つの願い、たった一つの約束、たった一つの過ち、そのためにセレスが立ち止まる事は赦されなかった。否、
自身が赦さなかったのだ。目的はあるが充てのない旅を続ける事、それが今も自身が此処にある絶対の理由と自ら定めたから。
それを達成するまでは倒れる事も立ち止まる事もない、そうする事は自身の存在を否定する事に他ならない。
過去を消す事が出来ないように、これまでの全てをなかった事には出来ない。
逃れられない想いが、大切な思い出が、それを赦さない。
だというのに、何故だろう。
今更になって思い出される二人の顔にセレスは小さく苦笑した。
どんな形であろうと遅かれ早かれ別れの時はやって来る関係、それはこれまでと何も変わらない。
ただそれだけだったのに、酷く胸が痛んだ。訳のわからない罪悪感にも似た感情が湧いてくる。
似ているのがいけない、そう内心呟いてセレスは目を軽く伏せた。
賑やかな酒場の雰囲気やそこを出入りする人々、それらは失われた過去と交差する。それだけならこれまでにもあった、
いつの時代も変わらず人間は辛い目に合い愉しい思いをし、年老いて行く。何も変わらない時間の流れだ。
だが、此処はそれだけでなかった。これまでにも外見のままに子供として扱う者はいたが、
その接し方にはセレスを魔然師としても見ているものが含まれていた。子供が旅をする上で気のいい大人は余計な心配とはわかっていても、
その身を案じたりもした。セレスにとってそれは有り難い事ではあったが、同時に厄介な事でもあった。
その旅に他人は関われない事を他の誰よりもセレス自身は痛いほどに理解していた。
だから必要以上に関わろうとする者がいれば魔方の力を持って誰かの手を必要としないというのを遠まわしに告げたりもしたし、
請われれば魔然師としてその力を使い責務を果たした事もある。そうすれば大概の人間はセレスを子供とわかっていても、
そうは見なくなる。一線隔てて、旅の魔然師として扱うようになった。
行きずりとはわかっていても、他の人間との隔たりを感じるのは心苦しいものではあった。どうせならば、
愉しい思い出だけを止めておきたいという思いもあった。それでも、そうする必要があったからこそ、これまでそうして来たのだ。
だというのに。
何故、レシャの申し出にあの時頷いてしまったのか。これまでを思えば丁重に断り、
余計な関わりを持たなくて住む普通の宿屋に宿泊していたはずだ。
それなのに。
苦言を呈したレイトは尤もで、セレス自身も言われずともそんな事はわかっていたのだ。
それでも、頷いてしまったのには訳がある。
あの雰囲気の中、自分を見つめてそう告げた眼差しは酷く懐かしいものだった。表情に落ちる影も似ていた、
外見の色合いは全然違うというのに全く同じものだった。気が緩んだ訳でも、目的を忘れた訳でもなかった。
ただ、余りにも似ていたから。自身が何者であっても変わらず接してくれた、まるで家族のように優しかったその姿が思い起こされて、
懐かしかったから。
嬉しかったからだ。
別人だと、此処も別の場所だとわかっている。それなのに過去の記憶に捕らわれた。懐かしくて愉しくて、
大切な人達がたくさんいたその頃に戻ったような、そんな気がしていた。
気のせいだとわかっていても、つかの間の思い出に浸っていたせいもあるのかもしれない。
だから二人のあの顔を見て辛いと思い罪悪感など感じているのだろう、そう結論付けて自嘲した。
もう、いない。
もう、何処にもない。
今はもう、全て、この世界の何処にもないのだ。
大切なものは零れ落ちるよう砂のようにこの手から失った。
残ったのは、たった一つだけ、共に旅を続けるレイトだけだ。他には何も、誰もいない。
セレスは小さく息を吐き出した。
忘れろ、と自身に呟く。これから対峙するのは“神”だ、こんな不安定なまま顔を合わせれば相手に飲まれてしまう。
それだけは出来ない、セレスにはこんな所に留まるつもりは更々無いのだ。忘れなければ、
しっかりと前を見据えて毅然と向かい合わなければならない。でなければ、遠い過去に自らの犯した過ちを繰り返す事になる。
それだけは、他に何をしようともそれを繰り返す事だけはしてはならない。
もう一度、息を吐き出して深呼吸をする。
目的を忘れてはいけない、立ち止まる事をしてはいけない。自身に再度、しっかりと告げた。
それから前を歩く神兵の背を見つめる。その在り方は間違いだ、誰しも、自身とその大切な人のために生きるべきだ。
人の道を捨ててまで“神”に仕える必要はない、それだけの価値がある存在でもない。人間は、人間として生き、そして死ぬ。
それが自然の流れ、それを歪めてまで存在し続ける事は、不自然。在ってはならない事なのだから。
睨むようにしてセレスはその背を見つめ、小さく唇を噛み締めた。
(―――これだけ時間をかけて、まだ、自身の過ちに気付けない…。何故、気付かないのか。気付こうとしないのか…)
口裏で呟いてから、頭を振る。そんな事は今更だった、それが出来ていればこんな事にはなっていないのだから。
ふぅ、と小さく息を吐き出したセレスは暫く思案するような顔を見せた。
それから暫しの間を置いてふいに顔を上げる。その視線は遥か前方、天井を仰ぎ見るようにして送られていた。
間隔を置いて設けられている小さな天窓の一つが、セレスの見つめる先でいびつに歪んでいる。
そこを歪めた原因――小さな影が動き、それを視界に捕らえたセレスは小さく肩を竦める。どうやって侵入して来たのか、
“神”の力によって守られているその場所へ、伴って来た訳ではない者がそこにいた。両手を広げるようにして、
天窓いっぱいに自らの羽根を開いて自身の存在を証明した――レイト。
それに頷きを一つ返し、レイトを見つめるその表情は先程までのものではない。
静かな炎をその瞳に宿しながらも、微笑んでいる。普段の笑みであるそれも、伴った雰囲気は全く別のものだ。
レイトはそれらを見下ろすようにしてから羽根をたたむと、静かに自分の眼下を通りすぎる神兵とセレスを見つめる。
そしてもう一度、頷きを返してから顔を伏せたセレスは口元を小さく歪めてこの上なく妖艶な笑みをその顔に浮かべた。
自室に戻ったレシャは、備え付けられた机の前に立ち尽くしていた。
その視線の先にあるのは一枚の絵、小さな木製の額に入れられた写真立てにも似たそれを手に取るでもなく、ただ、
じっと見つめていた。
そこに描かれているのは二人の人間だ。忘れた事など一日とてない、レシャの母親。そしてその腕に抱かれている赤子の自分。
手元にある母の思い出と呼べるものは、この絵と自身が身に付けているピアスだけだ。他には何もない。
幸せそうに笑みを浮かべる母親の姿を悲痛に歪んだ眼差しで見つめ、レシャは瞼を伏せた。
記憶にある母親は、穢れを知らず、心優しく、それでいて自分には厳しく、信心深い人であった。尤も、
“神”を信仰していた訳ではなかったが。彼女の信じる唯一の存在、彼女にとって絶対である存在、ただ、その人を想っていた。
幼い頃、レシャは母親に聞いた事がある。どうして旅を続けるのか、何故父親がいないのか――、
そう問い掛けるレシャに決まって母親は優しく微笑むと同じ答えを口にした。
伝えるべき人に、伝えなければならない事があるから。
何故それが答えになるのか幼い時分にはわからなかった、口を尖らせて異を唱えた事もある。それでも、何度聞いても、
時間を置いても、母親の答えは変わらなかった。
今ならば、少しだけそれがわかる。
母の伝えたかった言葉は至極単純で、それでいてとても大きな意味を持っていたのだと。そしてそれを本人に伝えなければ、
何の意味もなさないのだという事も。
「私は、この世界に生を受け、この時代を確かに生きた…。それは初めから終わりまで、素晴らしい奇蹟の連続で、
とても幸せだった――」
それを伝えるためだけだった。最後の時の前に、レシャはその言葉を聞いた。ずっと昔から、遠き先祖に渡るまで、
その言葉を伝えるためだけに旅していたのだと、自分もそう思うから必ず伝えたいのだと、母は言った。
レシャ自身も、そう思う。辛い事や哀しい事の多い生ではあるが、同時に愉しい事や嬉しい事も数多くあったのだから。
そして奇蹟と呼べる出会いも。
だが、レシャには母のように旅に出る決心は付かなかった。
母の眠るこの街を離れたくないというものあったが、それ以上に、カイエルやウィル、街や酒場の存在があったからだ。
辛い事も哀しい事も、彼等がいたから乗り切ってこられた。彼等がいたからこそ、幸せであると感じる事の出来る今の自分がある。
此処にいたからこそ、出会った人達。
「―――母さん、オレ…」
顔を伏せて小さく呟いた。
約束を守れないかもしれない、そんな言葉を飲み込んだ。母の願い、母の想い、母の苦労を思えばそれを口にする事が出来なかった。
俯いたまま拳を握り締めたレシャの耳に、扉の開く音が届く。それでも室内へと立ち入るつもりはないのか、
廊下に立ち尽くすようにして自分を見つめる視線を背に感じた。
「カイエル…帰ったんじゃなかったのか?」
振り向く事なく静かな声音で問い掛ける。
「―――お前は馬鹿だ」
暫しの間を置いて、そんな声が返った。
「本物の、大馬鹿野郎だ。自分に出来ない事を他人にやれっていう所も馬鹿だし、今更お前を忘れろとかオレに言うのも馬鹿だし、
全部なかった事にしろなんて全然平気じゃない癖に平気な振りして口にするのも馬鹿だ。それにな――」
そこで科白を区切ると、カイエルは室内に足を踏み入れる。
「お前が、いなくなって…困らないヤツがいるなんて事を思う。―――ホント、お前は大馬鹿だ」
今にも泣き出しそうに悲痛な声で、搾り出すようにしてカイエルは呟いた。
しかしレシャは小さく頭を振ると、
「わかってる。自分が馬鹿なのは言われるまでもなく、な。―――だが、オレは元々この街の人間じゃない。
だからそれに関しては事実だ」
そう、淡々とした声で答えた。
その科白にきつく拳を握り締めると足早に近付き、思い切りレシャの肩を掴むと自分の方へ躰ごと振り向かせる。
「今更なんだよ!」
そう、静かに瞼を伏せたままカイエルと目を合わせようとしない姿に向かって叫んだ。
「全部、おせぇ! 何もかもが遅すぎだ!! いいか、お前はな、もうこの街の人間なんだよ。お前がいなくなったら、
困るヤツなんかオレ以上にいるんだよ! 自惚れるのもいい加減にしろっ! お前には通りすがりなんて科白は使わせねぇぞ。
旅人レシャは、ウィルの息子になった時からこの街の人間になったんだ。そんでもって、オレにとっちゃぁ…、オレに…」
そこで言葉を詰まらせ、カイエルは顔を伏せる。
「―――お前の、代わりなんかいねぇんだよ。レシャはレシャで、オレの親友はお前だけで…」
「カイエル…?」
俯くその頬を、涙が流れていた。
「だから、いなくなっても…とか言うなよ。他の誰が困らなかったとしても、オレは困るし、嫌なんだよ…。
大体、昔から何するにも一緒にやってきてさ…」
「カイエル、その事なら――」
「うるせぇ! お前のやろーとしてる事なんざお見通しだっての! ―――オレを、誰だと思ってんだよ」
科白を遮って叫んでから、涙にぬれたままの顔を勢いよく上げて、間を置いて静かにそう告げた。
その姿を見つめ返したレシャは小さな笑みを浮かべて、やっとカイエルと視線を合わせる。
「そう…だったな、悪かった」
小さく呟くと涙でボロボロになった滅多に見る事の出来ないカイエルの姿に苦笑して、
「お前の事を思って言ったんだが、オレは間違えてた訳だ」
そんな科白がレシャの口から漏れる。声の調子はいつもの幼馴染だけに見せる皮肉めいているのにいたずらっ子にも似た響きのもの。
「当たり前だっつぅの! ホント馬鹿野郎だ、お前。気付くのおせぇ」
「そんなボロボロで言われても説得力はないんだが」
「うるせぇ! お前が柄にもない科白言いやがるから、オレも柄にもない事になってんだよ!!」
「ああ、それはすまなかった」
肩を竦めて棒読みとしか思えない謝罪の科白を口にする。
「全然思ってねぇ! 科白と顔が合ってねぇ!! ったくよぉ、お前ってヤツぁ…ホントによぉ」
「馬鹿野郎は聞き飽きた」
「うるせぇ!」
視線を明後日の方へと向けて呟いたレシャにいつも通りのツッコミをし、それから肩を掴んでいた手を離すと顔を拭う。
「全く、オレを泣かすなんざウィル以来だコノヤロウ。タダじゃおかねぇから覚悟しろよな!」
「今更お前に覚悟しろって言われてもな…」
「当の昔にそんな覚悟は出来てるってか?」
「すっかり忘れてたけどな」
苦笑したレシャに、晴れやかな笑みをカイエルは返した。それから真剣な表情にがらりと変えて、
「行くんだろ?」
静かに、問い掛けた。その眼差しはレシャをしっかりと見据えたままで。
答えは聞くまでもなかったが、それでも尋ねたカイエルに大きな頷きが一つ返る。
「そっか」
口元に笑みを浮かべてそんな声を漏らした。
それを耳にしてレシャは肩越しに振り返り、母の姿を見つめる。変わらず優しい微笑みを浮かべる、今はいなくなってしまった人。
その姿にカイエルは視線を落とした。
「―――レシャ」
小さく、そのままで名を呟く。
「何だ? 今更な質問は却下するが」
先程の問い掛けの事だろうが、そんな皮肉を口にするレシャに、
「仲間、かもしれないからか?」
落としていた視線を上げてレシャと同じように、変わらぬ微笑みを浮かべるその姿を見つめるようにして呟き問うた。
静かな沈黙が流れる。
顔を伏せるようにして背を向けて、部屋の扉を開いた時と同じ体勢になったその背をカイエルは静かに見つめた。
向き合うようにして母の姿をしっかりと見つめる、微笑むその姿に自らの言葉で告げなければならない事がレシャにはあった。
「そうだな」
短く、それでいて確かな決意と呼べる科白でそう答えた。
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