着替えを済ませて降りて来たセレスを、悲痛にも似た眼差しで二人の青年が見つめる。それに肩を竦めて返すと、
「行ってくるね」
にこやかな微笑みを浮かべてそう告げた。
それから視線を変わらず入り口で待ちつづけていた異形の黒き者へと向け、
「お待たせ。さっさと行きましょう」
先ほどとは比べ物にならないくらい冷淡な声で告げてその傍へと歩み寄る。それを確認してから、大柄な男がきびすを返し、
「参りましょう。主の元までご案内致しますので、しっかり付いて来て下さい」
小柄な男が一礼し、そう告げて大柄な男に続く。それを冷ややかな眼差しで見送ってから肩で息を付くと、
更に後に着いて店の入り口の扉をくぐる。
「―――セレス」
その背に困惑したままのレシャの声が届いた。
扉を閉めようとしたセレスは笑みを浮かべると、
「大丈夫。行ってきます」
そう告げて、古い扉を閉める。後には、元通りの静寂な酒場が残された。
栄えている大通りとは言え、ここは砂漠にある街だ。砂地である大通りを、
足音一つ立てる事なく進む二人の黒き背を双眸を細めて見つめながらセレスは静かにその後を進んだ。
(もう少し人間らしいなら同情も覚えるんだけどね…)
どんなに静かに歩こうとも、固められた砂の上に舞い込んだ砂が散っているこの道は人間であれば歩む音――
砂地を踏みしめる音がするものなのに。如何なる魔方によるのか、異形の者は目で確認しなければわからないほどにその存在は儚い。
真っ直ぐに街の中心部へと歩くその背をにうんざりしたような溜息をセレスは吐き出した。
これからどうしたものかと思案しつつ、軽く天を仰ぎ見る。
今日は満月だから――、ふいにレシャの言葉が思い出された。月夜の明るい夜、
人目をはばかるにしては堂々としすぎているのではないかとセレスはもう一度溜息を吐き出す。月明かりに照らされて、
その姿はどうやったって人目に付くのだ。尤も、この時間に起きている人間がいればの話だが。
「それにしても…砂漠の夜は冷えるわね」
ぽつりと呟いた。静かな夜の静寂の中にその声はいやに響いた。
「申し訳ありません。館は暖かいので、もう暫くご辛抱下さい」
小柄な男が肩越しに振り返りそんな事を口にする姿を眉間に皺を寄せるようにして見つめてから、
「今気付いたんだけど、話すのはあなただけなの? もう一人の人は全く口を聞かないみたい」
そんなどうでもいい事を問い掛けた。
「彼は言語を理解し、その行動を取るだけで他は何も」
「そう」
静かに返った答えにセレスは短く頷いた。
何かを期待していた訳ではない、ただ、予想していた答えをそのまま平然と返した科白に呆れを通り越してのものだ。
ちらりと大柄なその背を見つめてセレスは小さく息を付く、あのまま見過ごす事なくてよかったと思いながら。
言うまでもなく、大柄な男は強制的にセレスを連行するためだけの目的での同行者に他ならない。
否を唱えれば実力行使に出るだけ、絶対の命令である“神”の言葉に従い、そのためなら命すら惜しまずに行動する、ただの人形。
本当に下らない、そんな科白をセレスは飲み込んだ。
「―――見えてまいりました」
小柄な男の声に視線をその前方へと走らせた。回りの風景に決して溶け込もうとせずに高く聳える塀は、
それだけでその場所が異質なものである事を告げている。
この場所には入り口がない。四方を全て壁で覆われた、まさに“神”の住む絶対領域であるその場所は、
他者の侵入を拒み続けるかのようにして入り口たる門は備え付けられていなかった。
尤も、一般人からすれば、の話であるが。
眼前に迫った塀には入り口など見当たらない。小柄な男はそれを気にする事なく進み、
すぐ目の前で立ち止まるとその壁に両手を充てる。
「
Opening the gate」
小さく、そこを開くための言葉を呟いた。今は失われた、古き言葉。
その声に答えるかのようにして壁であったはずのその場所がぐにゃりと歪み、一メートルほどの横幅を持って塀が消失した。
それはこの館への出入りを赦された者だけに使う事の出来る、入り口を開くための言葉。他の者が同じ事を口にしようとも、
“神”の許可が与えられていなければ決して開く事のない扉。
細めた双眸に微かな炎を宿してそれを見つめていたセレスを、小柄な男が振り返る。
「それでは、参りましょう」
告げられた科白に頷きを返したセレスに、左右に別れて先に進むよう促した神兵の姿に肩で小さく息を付く。
それからその向こうに見える建物を見据えるようにしてセレスは足を踏み入れた。
その後を追って神兵が門をくぐると、扉は自然に閉じられ再びただの塀へとその姿を変える。眼前に広がるのは、
砂漠とは思えない緑の絨毯織り成す庭と、きらびやかな建物だ。それ自体の入り口は目に付く所には見られない。
「―――それで?」
くるりと反転したセレスが、にこやかに微笑んでそう問い掛けた。
「館の入り口はこちらになります」
そう言って小柄な神兵が指し示し、
「ご案内致します」
そう続けてセレスを追い越すようにして歩き始める。
行動が単一、そんな事を口裏で呟いてからセレスはその後を追った。
暫く館の壁伝いに進み、その角を曲がるといかにもな大きな両開きの扉が目の前に現れた。
「うわ…べたべた」
思わずそんな事を呟いたセレスに、
「臆されましたか?」
小柄な男が微かな嘲笑を含んだ声音で問い掛ける。
「―――は? 何それ、笑えない冗談ね」
「初めてご覧になられる方は、皆様驚かれますから。此処は砂漠であるはずなのに、このように緑に溢れている庭園にしても」
「驚く人がいる事に逆に驚いたわ、今。―――だって、此処にいるのは“神”サマ。
大昔にこの世界が死に行くのを救ったって言う、言い伝えのある。そんな謂れのある存在が此処にあるんだから、
別にこんな光景で驚く事なんてないと思うんだけど。私」
さも当然とでも言うかのように告げられたセレスに、小柄な男は小さな頷きを返した。
「ご尤もなお言葉。―――流石は銀の方と、主の行う御業をよく理解していらっしゃる」
心酔しきった科白を口にした姿を訝しげに見つめ返すと、
「その呼び方止めてくれない? 私にはイーヴェヴァセレスっていう名前があるの」
不満そうな声を、今更な科白で告げた。
「存じております。しかし…申し訳ございません。我々には、此処の方々の持つ名など、意味のないものですから」
至極あっさり返した拒絶にセレスはあからさまな溜息を吐き出す。
「本当、あなた達って融通ってものが全く利かないわね」
「我々はただ、主に仕えるためだけの存在ですから」
きっぱりとした答えに、
「そういえば、そうだったわね」
厭きれ返ったようにセレスは頷いた。
「それでは参りましょう。主もお待ちの事と思います」
彼等にとっては不遜とも取れる態度を意に介す事もなくきびすを返して扉を押し開く、
その背で薄っすらとした冷笑を浮かべたセレスに気付かぬまま先に立って館へと入ると、
「ご苦労だった、持ち場に戻れ」
そんな科白を顧みる事なく告げた。それに大柄な男が無言のままセレスの横で反転すると、辿って来た道を戻って行く。
「あの人は、ここまでなの?」
「彼は、主のいるこの館への立ち入りは赦されておりませんので」
静かに告げて、扉を背に左手でセレスを招き入れる仕草を取ると、
「どうぞ、お入り下さい」
左手を館の内へと向けて頭を垂れた。
「そう。どうも有り難う。神兵でさえ入る事の赦されない場所に、私が入れるなんてね」
「銀の方、あなた様は主のお客人でありますから」
肩を竦めて館の内へと立ち入ったセレスにそんな事を告げて、扉を閉じた。
酒場ウィンには、重い空気が流れていた。
セレスが扉を閉めた古めかしい音を最後に、以降、静寂な空間だけがそこを支配している。残された二人は、
ただ悲痛にその表情を歪めたままで閉じられた扉を見つめていた。
二人の脳裏にそれぞれ過ぎる思いが何であるかは判断が付かないが、ただ静かに、全ての流れを静止させている。
どれほどの時間が過ぎたのか、呪縛が解けたかのようにしてカイエルがその場にへたり込んで腰を落とした。
「―――何も、出来なかった」
それから、ぽつり、と呟いた。普段のカイエルからは想像も付かないほどに弱々しい声で。
「行かせちまった…」
無念さを十分に含んだ声音と科白だった。
それに、やっとレシャが顔を伏せ、瞼を閉じる。
随分前に居なくなったセレスが扉を閉じる直前に見せた笑顔だけが、微笑んで大丈夫だと告げて扉を閉じるその姿だけが、
焼かれたフィルムのように何度も何度も繰り返されていた。
何も出来なかったのはカイエルだけではない、レシャもだ。いざとなれば戦闘になっても構わないと、
そう思ってセレスを伴いこの場に戻ったというのに引き止める事すらも出来なかった。
顔を伏せたままきつく唇を噛み締めると、拳を握り締める。
「―――カイエル」
小さく、重い声が名を呟いた。
それに答えるかのようにして顔を上げたカイエルの表情は悔しさと憤りの交じり合ったものだ。
レシャは瞼を伏せたまま視線を合わせる事なく、
「お前も、もう帰って構わない」
そんな事を静かに口にした。
「レシャ…?」
「この事は、忘れろ」
静かな声が、出来るはずもない科白を告げる。
「レシャ、幾らなんでもそれは――」
「それがお前のためだ。カイエル、お前は……これ以上関わっては駄目だ。全部忘れるんだ、セレスの事は。
そうしなければ、お前の命に関わる」
困惑に満ちたカイエルの科白を遮るようにして、絶対の真実を突きつけた。
「そんな事出来るわけないだろ!」
叫び声を上げたカイエルと視線を合わせる事なく、レシャはそのままきびすを返し、
「出来なくてもそうしろ…。頼むから、そうしてくれ」
背を向けたままで静かな懇願するような声音で呟く。
「―――お前は、何も見ていないし、誰とも関わっていない。全部忘れるんだ、忘れてしまえ。
それで、お前はお前の居るべき場所へ帰るんだ」
「レシャ、幾ら頼まれてもそんな事――」
「忘れろ。全部、だ。―――オレの事も、忘れてしまえ」
最後に付け加えられた科白にカイエルは目を見開いた。それから、
驚愕と困惑の眼差しでそんな事を口にする幼馴染の背を茫然として見つめる。
「…レシャ?」
小さく呟く声は、更に消え去りそうなものだった。
しかし、それに何かを返す事もなくレシャは背を向けたままニ階への階段へと向かう。再び、沈黙が辺りを覆い、
レシャの歩く床の軋む小さな音だけが響いた。階段を上って行くその姿を見送ってから、
「―――そんな、事…出来るわけねぇだろぉ……馬鹿やろぉ」
涙目になって顔を伏せると、そのままの声で呟いた。
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