二階へ上がり切るとレシャはそこで立ち止まった。
ずっと昔、酒場ウィンは小さいながらも宿屋を兼ねていた。部屋数は4、先代のマスターであったウィルの妻が健在だった頃の話だ。
妻が亡くなると客室の準備や宿泊客への気遣いなど、
手が回らないという理由で――元々ウィルは酒場の経営に専念していたし――それに合わせて住んでいた家を売り払い、
妻亡き後ウィルはこの二階の宿の一室を自宅にしていた。
その部屋はウィル亡き後も時折掃除するだけに止めておいて今も生前のまま残されている。
レシャとその母親がかつて世話になっていたのもこの場所だ。
母亡き後もレシャはそのまま借りていた部屋を自室にして今も使っている。そうして余っている部屋の2つの内一つを、
今はセレスに貸していた。
ウィル亡き後、レシャが一人で酒場を切り盛りできていたのはカイエルの助けがあったからだ。
経営にも慣れてきて、余裕が持てるようになったレシャはカイエルに相談し、
手伝いに来てくれる満月と新月の夜を挟んだ数日間だけ宿屋を再開してみようと思い始めたのが丁度一ヶ月前。
使われなくなって久しい二階の部屋を掃除したり、宿としての運営をするに当たって色々計画を立てたりもしていた。
そんな時に偶々やってきたのがセレスだ。普段なら斜め向かいにある宿屋を紹介するレシャも、宿運営のためのテストを兼ねて、
と話をしてセレスを此処に泊めていた。確かに宿運営のテストというのも嘘ではなかったが、それ以上に、
セレスがまだ子供であるという事とその髪が見事な銀であった事、それから魔然師であった事など、
レシャがそう思い立って提案した理由は他にもあった。テストであるから宿代はいらないといったレシャに対し、それでは悪いからと、
酒場の方の手伝いを少しするから世話になるとセレスは答えた。セレス自身にしても充てのない旅をしている以上、
出費は抑えられるものなら抑えたいし、食べるものだってどうせなら美味しいものの方がいい。
互いの利害が一致して、今の状況になって早一週間。
それは起きてしかるべきものではあったが、尤も望むものではなかった。
俄かに俯き加減になって数歩進み、セレスの部屋の前で立ち止まる。ノックをしようと手を上げるが、そのままで静止した。
このまま此処で少し時間を潰して戻り、寝ていたと告げたら使いは帰るだろうかとレシャは思う。
だが、それは否だ。否定したくもないのに、現実的思考がはっきりと否定してくれる。
はぁ、と大きく息を吐き出すと意を決したように扉を数回ノックした。
「―――セレス、起きてるか?」
次いで、そう声をかける。神兵に告げた事は嘘ではなかった、寝るとセレスが告げて部屋に戻ったのは二時間ほど前の話だ。
普通であれば既に寝ているだけの時間は経過している。
暫し待って、反応が無ければそのままきびすを返そう、そう思っていたレシャの目の前で、ゆっくりと扉が開かれる。
小さく空いた隙間から目に飛び込んで来るのは見事な白銀の髪。
「セレス…。まだ、起きてたのか」
思わず、そんな事を呟いた。
「―――うん」
「そうか…」
姿が見えるだけの状態に扉を開いて自分を見上げて頷く姿にレシャは複雑な笑みを浮かべる。
「そろそろ寝ようかなって思ってた所だけど、何かあったの?」
「あったと言うか、何と言うか…」
そんな事を口にして思案するような顔を見せたレシャに数回目を瞬いてから、セレスは扉を大きく開いた。
「何か込み入った話みたいだから、中へどうぞ」
そう告げてにっこりと微笑んで右手を室内へと伸ばした。
「悪いな、こんな時間に」
「ううん。気にしないで。起きてたんだし、大丈夫だよ」
笑顔での科白に、レシャはゆっくりとした足取りで部屋へと入ると、
「どうせなら、寝てた方がよかったんだけどな」
そんな科白を苦笑交じりに呟いた。
「そうなの?」
「ああ…。―――と、レイトもまだ起きてたのか」
部屋に備え付けられた机と椅子、その椅子の背もたれに止まり自分を見つめる姿に更に苦笑する。
「イーヴェヴァセレスが五月蝿くて眠れなかったんだよ」
憮然とそんな事を口にする。
「五月蝿くて…って、だって寝ようとしてたんだろ?」
「いやいや〜全然。イーヴェヴァセレスってば寝る気なんかなかったね!」
「ちょっと、レイト。余計な事言わな――」
「下が気になって、何度も行こうとしててさ〜。部屋ん中をぐるぐる歩ってんだもん。寝れないよ」
セレスの制止の声を途中で切って、いつもの調子でちょっと拗ねた様にして答える。
「―――え? それって…つまり」
一瞬呆れ顔になってから眉を顰めたレシャに、
「違うよ、そうじゃないの」
慌てた声でセレスが割り込む。
「凄く賑やかだったでしょう? だから、愉しそうだなって、その…混ざりたいなって。でも寝るって言ったのに、
降りて行ったら、五月蝿くて眠れないから文句言いに行ったみたいで嫌だなって思って…」
「五月蝿かったのは事実じゃん」
セレスのフォローをあっさりとレイトが斬り捨てた。
「そうか、それは悪かったな。どちらにしろ、賑やかじゃなかったらもう寝てた訳だし」
肩を竦めたレシャに、セレスは眉を寄せてレイトを睨んだ。
「レイトだって、愉しそうって言ってたじゃないの」
「オレは寝るって言ってないし〜」
暢気な声でそう告げて羽根を広げると、窓の傍へと移動する。
「寝ようと思って帰ってきたらイーヴェヴァセレスはそんなだったんだし〜」
コツコツと嘴で窓を数回叩いて、あっさりとした声でそんな事を口にする。
鳥なのに夜も飛びまわっていたのか、なんて内心呟いたレシャに、
「でも、起きててよかったね。レシャが今頃、用があるって来たんだし。お店の方、もう終ったんでしょう?」
慌てたセレスの声が話題を元に戻した。
「あ、ああ…。まぁ、そうなんだけど。よく終ったなんてわかったな?」
「さっき、カイエルが大声で叫んでたから。マグローって」
肩を竦めてそう言ったセレスに、なるほどとレシャは頷いた。それから苦虫を噛み潰したかのような顔になると、
「―――さっきも言ったけど、どちらかと言えば寝てた方がよかったかもしれないな」
そう呟いて軽く顔を伏せた。
「何か、問題でもあった? さっき、扉を開いた時も、レシャ……凄く真剣なのに困った顔してたから」
静かに、問い掛ける。
「そんな顔してた?」
「うん、してた。何に例えるのって凄く難しいけど、そういう顔してた」
「そうか…」
頷いて、沈黙する。その様子は、どう切り出していいのかを、迷っているように見えた。
「カイエル、大声で叫んでたけど。マグロの方に問題でもあった? 全部出して失敗したな、とか…」
「いや、そんな事はないが…」
脳裏に過ぎった事を問い掛けるも否定され、では一体何があったのかとセレスは考えるような仕草を見せる。
沈黙した場を、レイトのあからさまに吐き出した大きな溜息が遮った。
「言い難いんなら、時間を置くとかさ。もう時間が時間だし、イーヴェヴァセレスはやっと寝る気になったんだし〜」
暢気な声でそんな提案をしてから、
「あ〜それとも、アレかな? 今来てるお客さんの事とか〜?」
全く気にも止めた様子もない普段通りの声でそんな事を口にした。
それを耳にしたレシャの目が大きく見開いて、レイトを凝視する。
「今来てるお客さんって…、みんな帰ったからお店は終ったんだよ。何を言ってるの、レイト?」
厭きれ返ったセレスの声が後に続いた。
「この店の客は帰ったんだろ〜」
一つ頷くような仕草を見せてから、この店の客、を強調してレイトが呟いた。
「…え? それってどういう…」
「本当、ヘンなトコで鈍いよな〜。イーヴェヴァセレスって」
今度はレイトが厭きれ返った声を上げる。
「何よ、わかってるならはっきり言ってよね」
そう言って口を尖らせたセレスに、
「セレス、お前に、客が来てるんだ…」
そう、酷く重い声でレシャが呟いた。
「私に…?」
「ああ。―――レイトは、知ってるんだな」
「窓から見えたからね。この窓、通りに面してるし」
あっさりと返った科白に、レシャは苦笑した。
「だったら寝たふりとかセレスにさせてくれればよかったのに」
「レシャだって魔方師なんだから別に可笑しくないだろ? だからさ、イーヴェヴァセレスに用だってのはわかんなかった。
だから別に何も言ってなかっただけだよ」
「オレが来て、気付いたんだな」
「そーゆぅ事。でもさ、その後で寝たふりしとけ、なんて言ったってイーヴェヴァセレスが素直にそうする訳ないじゃん?」
あっけらかんと告げるレイトのそれは自然な答えだった。
「それもそうだな」
軽い頷きを返して、意味がわからないといった風な顔で二人のやりとりを見ていたセレスへと視線を移す。
それから一呼吸置いて、
「“神”の使い…神兵がな、お前に会いたいと言ってきてる。館に招待したいそうだ」
この上なく悲痛な顔と声音で、そう告げた。
「そうなんだ」
妙にあっさりとした声が淡白に返る。
それを告げたレシャの様子とは酷く対照的な声音と科白、そして、その声そのままの表情。
「セレス…?」
そのままの顔で、困惑したような声をレシャが上げた。
「え…あ、うん。ほら…私って目立つでしょう? この髪とか、特に。だからね、余り驚かないって言うか…」
肩を竦めてそんな事を口にするセレスの顔は、何処かいたずらっぽく微笑んでいるようにも見える。
「驚いてくれよ、少しは。―――旅を続けるのに、こんな厄介事、ないだろう?」
「うん、それは…そうだけど。でも“神”サマだしね〜、色々知ってるんだし。
もしかしたら私が捜してる人の事、知ってるかもしれないから。そう考えると――」
「そんな暢気な事を言ってる場合じゃない。真面目に、これは大変な事なんだから」
「そうなの?」
きょとんとするその顔は、事態をよく理解していないとしか思えないものだった。
小さく息を吐き出したレシャは真顔になってセレスを見つめると、
「あいつ等に気に入られて、時々館へ呼ばれる人間がいる事は知ってる。オレには理解出来ないが、
多くの魔方を習う者達が呼ばれたいと考えている事も。―――でも、お前は違うだろう?」
冷静に、そして静かな声音で問い掛ける。
「中央にいれば、それだけで重宝され、優遇されて生活は守られていた。でもそれを払ってまで、まだ子供なのに辛い旅を続けてる。
館に呼ばれた者は、もう二度とそこから出られない。出られたとしても、その街から出る事は禁じられる。それが、館への誘いだ。
セレス、お前…旅が続けられなくなるんだぞ。それをわかってるのか?」
確かな事実を、旅をしているせいで恐らくわかってないであろうセレスにも、しっかりわかるよう、
一つ一つの言葉を選んで告げた。
「―――そう、なの?」
小さな声での問い掛け。
「ああ、そうだ。…旅を続けられなくなったら、困るだろう? 一応、寝ているという話はして来たんだ。
確認して来いって言われたから、仕方なしに此処へ来たんだ。…本当はそのまま帰ってもらうつもりだった」
「私が起きてたら、行かないといけないから?」
「そうだ」
「だから、寝てた方がよかったって言ったんだね…」
「ああ。―――だが、まぁ…いい。もうわかっただろう? このまま戻るから、お前は寝てるという事でいいか?」
そんな事を苦渋に満ちた顔でレシャは告げた。
「レシャ…? でも、私、起きてるし…」
「いいんだ。寝てるなら出直すと言っていたし。…その間に、お前はこの街を離れればいい。
色々調べて来てるんだろうから、お前が人を捜して旅をしているという事も知ってるだろう。だから、
その情報を聞いたからまた旅立ったとでも言えば後の事は何も気にしなくて――」
「嘘」
それが最善の法だと告げる科白を遮ってセレスが小さく呟いた。
「駄目だよ、それは。…そんな事をしたら、レシャに迷惑がかかる」
苦笑して続けられた言葉にレシャの顔が凍り付く。それを真っ直ぐに見つめ返して、
「そうでしょう?」
儚げに小さな笑みを浮かべて問い掛けた。
「―――それは…」
「それにね、レシャが私は寝てるから出直すように言ったって、その通りになんかしないでしょう? あの人達には、
私が寝てようと起きてようと関係ない。ただ…“神”の命に従うだけだから。無理にだって連れて行こうとする」
絶対の真実を、笑みを浮かべたままでセレスは口にした。
「もう一つ付け加えるなら…きっと私が起きてる事なんてお見通しだと思う。だから来たんだよ、こんな時間だって。
それを思えば、レシャがそういう嘘を言うだけで、迷惑かかっちゃうでしょう?」
「…セレス、それでも――」
「駄目。私のせいで、レシャがそんな事になるのは駄目だよ。親切で此処に泊めてくれたし、凄くよくしてもらったし。
愉しかったし…―――レシャ、私の事、普通に接してくれたから。カイエルだってそう。だから、二人に迷惑はかけたくないの」
そう言ってからにっこりと、年相応の笑みを満面に浮かべる。
「きちんと会うよ、そのお使いの人に。大丈夫、その人達は融通は利かないけど、“神”サマなら、
話せばわかってくれるだろうしね」
にこにこと告げる姿にレシャは目を瞬き、レイトはげんなりと大きな溜息を吐き出した。
「―――いや、しかし…セレス」
「いいからいいから。レシャって、年の割に苦労し過ぎてて、心配性になってるんじゃない? 余り考えすぎると、ハゲちゃうよ?」
びしっと人差し指をレシャの鼻先に当てるようにしてそんな事を口にしたセレスに、レイトが噴出す。
「それに…結構、待たせちゃってるんでしょう? 待ちくたびれてお店壊されたりしたら大変だから、すぐ行こう」
「え、ああ…確かに待ってはいるが…―――その格好のまま行くつもりか?」
セレスに気圧されるようにして頷いてから、はたとしてレシャはそんな科白を呟いた。
「何か問題あるの?」
「問題…というか。一応女の子なんだし、そのままで部屋を出るというのは問題ある気がしないでも…」
苦笑して告げられた科白に、セレスはきょとんとした顔を返す。
これから寝るつもりだったという科白は事実なのだろう、
セレスの服装は白地の袖の無いワンピース――そう言えば聞こえはいいかもしれないが、
細長い布の真ん中を頭が出るようにくりぬいて腕を出す部分を残して側面を縫い合わせただけの簡素な物、所謂、寝巻きだ。
「着替えるのに時間かかるし、会うだけだから別にいいよ。さっきも言ったけど、これ以上待たせて問題起こされても困るから」
あっさりとそう返すと、
「レイトは待っててね。行って来る」
笑みを浮かべてそう告げると、扉に手をかけた。
■BACK
■MENU
■NEXT