それは、何の前触れも成しに。
否、全ては定められた運命に従うが如くに。
時は回る、原点へと。
在るべきモノを在るべきカタチに、在るべきモノを在るべき姿へと、変えるために。
その日、酒場ウィンは大変な賑わいぶりだった。セレスにしてみれば、
そこに部屋を間借してから初めての事といっていい。レシャ曰く「今日は満月だから客が多い」はあながち冗談でもなかったようで、
それに加えて珍しい目玉商品となったマグロが大好評を博したからだ。
普段であれば夜も更ければ客足は減り行くというのに、その日はそれさえもなかった。
深夜を回り、もう1、2時間で夜明けがこようかという頃になって、やっと最後の客が帰った。
残されたのは大賑わいだった酒場の跡、否、祭りの馬鹿騒ぎの後と言っても過言ではない状態。
最後の客が帰るのを外に出て見送ったレシャは、肩で大きな息を付いてから店の入り口の扉を開いた。
これからやらなければならない仕事を思えば、今日は朝日が昇ってから就寝するハメになるのは目に見えている。
もう一つ、大きな溜息を吐き出してから、隅の方で床掃除を始めているカイエルへと視線を移した。
その視線に気付いたのか、扉を開く音が耳に届いたのかは定かではないが、顔を上げたカイエルと目が合う。
「おぉ、お疲れさん。ま、もう一踏ん張りだがな〜」
疲れきった声だがいつもの調子でそう笑顔で告げると、再びモップでごしごしと床を擦り始める。
「こちらこそ、だな。お疲れ様、カイエル。今日はいつにも増して賑やかだったからな…流石のお前も疲れただろう?」
肩を落としてカウンターの内へと回り込んでそう返すと、洗い場へと仁王立ちになる。
「あーまぁ、なぁ。これの半分はアレだな、セレスちゃんのせいだなっ。―――セレスちゃん、と言えば〜だ。
気になってる事が一つあんだけど、多分、お前もそうかな〜と思ってんだけど」
同じように肩で息を付いたカイエルは真顔で鍋を擦っているレシャを眺めてそんな事を口にする。
「…何だ急に? 他にもまだ何かあるって言うのか?」
意識は鍋に集中したまま、厭きれ返ったような声が擦る音に混じって返された。
「いんや〜別に大した事じゃねぇんだけどさ。―――セレスちゃんの付けてるピアスって、お前のと同じヤツ?」
さも当然とでも言うかのようにして、さらりとトンデモナイ事を口にした。
「目が悪いんじゃないか? 何処をどう見ても同じモノには見えないと思うが」
溜息がちの呟き。
二人とも確かにピアスを付けてはいるが、
レシャのそれはカフスタイプで左の耳殻(じかく)の上の方に一つだけで
一センチ程度の金属製のモノだ。変わってセレスが付けているのは左右の耳朶に一つずつ、クリスタル製の小さく赤い丸型のモノ。
レシャの溜息はある種、当然とも言える対応だった。
「カタチの話じゃねぇっての…それぐらいわかってるよ。てか、お前…、それ、わざとだろ?」
「それなら…―――オレは魔方師で、セレスは魔然師だ。別に珍しい事でもないだろう」
言い方を変えての答えに、カイエルは軽く眉を顰める。
「そりゃね。魔方を使う奴等がそういうのを力の…何だっけか? ま、何かで自分のために付けてるってのは知ってるけどさ。
それによって種類って違うんだろ?」
「そうだな」
「で、だ。お前のと同じじゃねぇ?」
「自分で否定する理由を言っておいて、わざわざそれを聞くのか?」
「だってお前は違うだろ。付けてる理由。自分の力のためじゃねぇじゃん」
苦笑して口を尖らせるカイエルは、手を休めて幼馴染の鍋と格闘する姿を眺める。
「形見だから、だろ? お袋さんの。遺言でもある訳だし」
沈んだ声音で告げられた科白にレシャは手を止めると、顔だけを巡らし、
「今日は随分と、真面目で大人しい声で話す事ばかりだな。内容が」
そんな事を溜息と共に吐き出した。
「別に意図的じゃねぇよ」
「意図してやられたら縁を切るぞ、本気で」
即答、しかもこの上なく真剣な声音でレシャは切り替えす。
「ひでぇ! ―――って、そうじゃなくてだなー。…実際のトコ、どうなんよ?」
お約束な科白を口にしてから、改めて問い直した。
「同じ、と呼べるモノなど何一つない。尤も似た様なモノではあるが…。セレスもな、アレは親から貰ったものだそうだ。
親から貰った、この世で二番目に大切なモノだと言っていたな」
「でぇ?」
「それだけだが?」
「―――は? いや、そうじゃなくってだな…。オレが言いたいのは――」
「わかってる」
あんぐりと口を開いて恍けた声を出してから、
気を取り直すようにして切り替えそうとした科白をはっきりとした口調でレシャが区切る。
「同じと呼べるモノじゃない、そう言っただろう?」
きっぱり断言してそう続けた。
「あ、そう…。んじゃオレの気のせいかねぇ…」
「第一、同じモノだとしたら用途が全く意味不明になっているだろう?」
苦笑して告げられた科白に、
「ああ、確かに」
そんな声を返してカイエルも苦笑した。
「いかんいかん。―――アレだな、お前はさっぱりしてるみたいだが、オレの方が引きずってるみたいだな」
「そのようだな」
あっさり同意して肩を竦めるとレシャは再び鍋と向かい合った。
「―――しかし、カイエル。あの忙しい中でそんな事を考えていたのか?」
ごしごしと鍋を擦りながらの問い掛け。
「あ〜いや、まさか。前々から気になってただけってヤツだよ。今日はホント忙しかったもんな〜。
満月だけって言う理由だけじゃないだろ。絶対に。もう、マグロマグロマグローッ! 大人気っ!!」
力いっぱい叫んでから、関心するような顔をして頭を振るとモップに手を伸ばして床掃除を再開する。
「何せ、あれだけあったのが早々と品切れだもんな〜。ホント凄いねぇ…海って凄いな〜」
「お前も随分褒めてたしな」
レシャが厭きれ返ったような声を返す。
「そうそう、アレ、ホント美味かっ――」
心底嬉しそうな声が、そんな所で切れる。それに伴うようにして全身の動きすらも止めた。
「…カイエル? どうかしたのか?」
科白が途中で途切れた事を妙に思いながらそんな事を問い掛ける。
だが、返事はない。先ほどまで聞こえていたモップをかける音も、そういえば再び途絶えていた。
「カイエル? まさか、そのまま居眠り――」
言いながら顔を上げて視線をカイエルへと向けようと反転したレシャは、そこにあるべくもないモノを目にして全身を硬直させた。
驚きに目を見開くようにして凝視するその先は、酒場の入り口である扉だ。否、扉のある位置。
そこに、異形の者がいた。
いや、その姿形は人のそれと何ら変わりはない。だが、それが異形の者である事を彼等は知っていた。
“神”に仕えし、その神兵。全身を黒装束で覆い、その表情すら深く被った黒いシルクハット帽で隠している者。
それが、二人もいる。小柄な者と、酷く大きな躰をした者と。
カイエルが動きを止めたのはこのせいだったのだと、理解するよりも先にレシャ自身も躰を強張らせて見つめた。
二人がその動きを止め、自らを凝視する姿を暫しの間そのままにし、
「―――夜分、失礼します」
小柄な者がそう口を開く。
「コチラにいらっしゃいます、客人の方に用があって参りました。対面願います」
二人を見回すようにして小柄な者は更に言葉を続けた。二人が昼間話したそれが、現実のものとなった事を告げる科白。
ひくりとレシャの顔が強張った。
「こんな時間にか?」
黒き使いを睨むような目でカイエルが口を開く。
「色々調べてわかってんだろ? 相手は子供だぜ? 寝てるとか思わねぇのかよ」
「あなた方の都合上、その邪魔をせずにお話をさせて頂くとなるとこのような時間にならざるを得ませんでしたので」
淡々と、何の感慨も含まぬ声が返る。口調は丁寧だが、告げられる声音にはそのようなものがただの一つも含まれていない。
ただ儀礼的にそう言っているだけにしか聞こえない薄い科白だ。
「だったら昼間に来いよな。後片付けじゃなくて準備中ん時とかな」
「陽のある間に我々が外を歩きますと、よからぬ噂の元となりますから」
(もうなってんだよ!)
内心叫んで、憮然として招かれざる客を睨む。
「―――レシャ、どうするよ?」
ちらり、と未だ強張った表情で来訪者を睨む姿を一瞥する。
「セレスちゃんに用があるってぇ事だけど?」
追い返したい、それがレシャの本音だ。何か理由を付けて明日とか明後日とか、先延ばしにさせてその間にこの街を離れさせる。
それが旅を続けるセレスにとって厄介に巻き込まれなくて最良の方法に思えた。ここで大人しく会わせれば、
その先は言われなくとも簡単に想像が付く。そのまま“神”の住む館へ連れて行かれる事になるだろうし、
恐らくもう二度とそこから出られない、もしくはこの街に止まらなければならなくなる。
だが、すでにカイエルの科白に異を唱えているのだ。簡単には返ってくれそうもない。
だからと言って実力行使で帰って貰おうものなら、この酒場が永久的に抹消されるであろう事も簡単に想像が付いた。
それと共に、自身も、居合わせただけのカイエルすらも、抹消の対象となる。自分の身だけなら構わないが、
カイエルをそれに巻き込む事だけは気が引けた。
彼が今この街から消える事になれば、彼が育ち、
死ぬまでここに住むと決めた家――孤児院に迷惑がかかる。カイエルが日頃様々な仕事をこなしてまで必死に金を工面しているのは偏に、
自身の幼い頃のような苦労を他の子供達にはさせたくないという思いからだ。
それが、今や一番の稼ぎ頭へと成長したカイエルを失うのだ。
子供達が路頭に迷うとまでは行かないまでも、彼の尤も望むべきでない形になる事は免れない。
幼馴染の苦労と努力を目にし、そしてその心を知っているからこそ躊躇われた。
カイエル自身のこれまでが、全て露と消える。
それだけは、避けたかった。それと共に、セレスへの対面も避けさせたかった。
険しい表情で沈黙するレシャに、カイエルは小さな息を吐き出してモップを壁に立てかけるとその傍へと歩み寄る。
「レシャ? 余り待たせると…あいつ等、そんなに気の長い方じゃないだろ?」
小声でそんな科白を口にした。
「言われなくてもわかってるだろうけどさ…どうすんだよ? 無理やり返ってもらうか? そんなら手ぇ貸すぜ?」
不穏な事を口にする幼馴染にレシャはその表情を幾分和らげると、
「滅多な事を言うな。そんな事になっても、お前にだけは手を借りるなんてのは有り得ない。
―――お前が居なくなったら、困る奴等が多すぎるからな。オレと違って」
苦笑して、小さく呟いた。
それから入り口に立つ神兵へと視線を戻すと、
「流石に、時間が時間ですから。出来れば今回は見送って頂けると有り難いのですが。
本人も、寝ると言って部屋に戻ってから随分と時間が経つ事ですし。それとも、起こして来いという事ですか?」
そう、静かな声音で告げる。レシャは嘘を口にはしていない、あくまで常識的に、そして事実を述べているだけだ。
「そうですか」
短く、小柄な者が相槌を打ち、
「誠に申し訳ありませんが、ここで頷き戻っては主に顔向けが出来ません。
お仕事中に迷惑かと存じますが、確認して来て頂けますか? 事実、既にお休みとの事でしたら再度出直しますので」
その口調は変わらず丁寧ではあったが、最初に告げられた科白が絶対の真理を伴っていた。口では出直すと言っているが、否だ。
決して手ぶらで帰る事などないと、断言したも同然のそれ。
「―――わかりました」
小さく唇を噛んで、レシャはそう答えた。
「行って来ますので、そこでお待ち下さい。―――カイエル、お前も掃除しようもないだろうから、
裏で休んでて構わない」
「え…あ、ああ。そりゃ…有り難いけどさ」
厳しい表情で面と向かい告げられた科白に頷いてから、
「本当にいいのか?」
やっと聞こえるくらいの小さな小さな声で問い掛けた。その表情も苦渋に満ちている。
「仕方ないだろう。後の事は、後に考える」
肩を竦めて苦笑を返すと、カイエルの背を軽く叩いてからカウンターを後にする。隣接された階段を上りながら、
その目で確認しないと存在を認識出来ないほどに整然とした神兵を睨むように一瞥すると、もう一度、
今度はきつく唇を噛み締めた。
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