静寂な時が酒場に訪れていた。
その場を支配するのは、酷く重い空気。そして半ば凍り付いたような顔をしたまま黙々と作業に従事る二人の青年の張り詰める空気。
「―――酒蔵を見てくる」
ぽつりと沈黙を破って呟かれた科白は普段のそれとは全く違うものだ。
「ああ、それはかまわんが…セレスちゃんはどうするんだ?」
「戻って来たら、今日の手伝いはそれで終わりでいいから夕飯まで好きにしてかまわないと伝えてくれ」
カイエルの問いの真の意味とは違った答えが返ったのだが、それに小さな頷きを返した。
「わかった」
「すまないな、お前も――」
「馬鹿野郎。ここは酒場なんだよっ! そのマスターが開店前に酒蔵をチェックするなんざ、当然至極の事じゃねぇか」
自分へと向き直りながら言いかけた科白を釘って一息で言い切ると、肩を竦めた。
「気にすんなっての。ゆっくりじっくり、見て来いよ? 後で不足が出たって補充に行くような暇なんざねぇんだからな」
そう言って、笑ってみせる。
時間をやるからしっかり立ち直って来いと、そう言ったのだ。酷く遠まわしな上に偉そうな言い回しではあるが、
レシャにとってはこの上なく有り難い申し出であったし、この街に住み始めた頃からの悪友ならではの慰め方だ。
「ああ、そうする。下ごしらえ、しっかり頼んだぞ」
「おお、まかせとけって。ついでにセレスちゃんが戻って来たら…このマグロとやらの味付けの方も聞いとくとする」
付け加えられた科白に、固いながらもやっとレシャはその顔に笑みを浮かべた。
「そうしてくれ。何しろ初めて客に出す訳だしな…ヘタなモノを出して店の評判を下げる事になったら元も子もない。
材料費も馬鹿にならなかったし」
「珍しいから美味かったら目玉になるな。―――とは言え、盛んに入るもんでもないから限定品だが」
「そうだな」
クスクスと示し合わせたかのように揃って肩を竦めた。
「じゃ、行って来る」
「おぅ」
包丁片手に頷いた姿にレシャは裏口の扉へと手をかけ、
「―――と、そうだ」
軽く押し開いたところでそんな声がかかった。
「ここはまかされるから、オレの分の晩飯もお前担当で宜しく」
そんな事を口にする。普段ならば適当に合間を見てつまんでいるカイエルにしては至極珍しい科白だ。
笑みを浮かべる姿を数回目を瞬くようにして見つめたレシャに、
「何だよ、その顔」
そう口を尖らせる。
その顔を見て納得したようにレシャは頷いた。つまり、それでこの件での貸し借りをなしにしようと言っているのだ。
だから遠慮なく考え込んで来い、そうとも言っているのだ。
「わかった。お前の夕飯も負かされよう。―――その時ばかりは、客として扱う事にするよ」
そんな事を言いながら扉を押し開いたレシャの背を完全に見送ってから、カイエルは小さく息を吐き出した。
ああは言ってはみたものの、レシャにとってそう簡単に忘れられるような話ではなかった事をカイエルにはわかっていたからだ。
それは哀しい過去との対面にも繋がる。
無愛想で、当時から実年齢より大人びていた――母と旅をしていたためと思われるが――レシャは、この街に来てから
同世代の子供達の間では少し間を置かれた存在だった。本人が進んで輪に加わろうとしなかったというのも無きにしも非ずだが、
それでも避けられていたと言っても過言ではない。レシャ自身も他人との関わりを希薄にしようとしていたし、
他人を寄せ付けない雰囲気をこれ以上ないくらいにかもし出していたし、一言で言ってしまえば生意気な少年だった。
この街から出た事のない他の子供達は彼にとっては取るに足らない、ただのつまらない子供だったのかもしれない。
例え年齢が自分より上だったとしても。
笑いもしなければ、怒りもしない少年だった。ただ静かに、人形のようにそこに在るだけの子供だった。
それを面白がってからかう子供がいても、レシャは何も変わらなかった。それが逆に相手の怒りを買って、酷いイジメを受けた事もあるし、
数人がかりで殴られるような事もあった。それでもレシャは何もしなかった、否、何もする気がなかったのだ。
血だらけになっても反撃も抵抗もしない姿に、カイエルは何度か止めに入った事がある。それでもレシャは礼を言うでもなく、
自分に危害を加えた子供達に何かを言うでもなかった。本当に、何も、気にしていなかった、その視界に何も入っていなかった。
カイエルはそれが面白くなくて、レシャを連れ出して街中を歩き回ったり、
路地裏にひっぱり込んではネズミの通り道やら怪しげな老婆やらに合わせたりした。どうにかして、その顔を、
周囲に興味を持たせたかった。ただ飄々としているのが生意気どうにかして驚かせてやれ、最初はそう思っていたのだが、
それは何時の間にかいつか絶対にオレが笑わせてやるんだと、目的が摩り替わっていた。
そうしてレシャがこの街に来て半年が経つ頃、母親が亡くなった。デルタに付いて数日後に倒れ、床に臥した母親は
弱りきった躰で必死に生きていた。幼いレシャを残してはいけないと、また自分は旅に出るのだと、
そう強い意志で命を永らえていたが、それも途絶えた。
その時になって、初めてレシャは泣いた。どれだけ傷つけられようと暴言を浴びせられようと、
決して顔色一つ変えなかった少年は、母親の死に大粒の涙を流して全身で哀しみを現し、大声で泣いたのだった。
ウィル――当時の酒場のマスターが、二人の面倒を見ていた。人の良いマスターだったが、
それ以上に倒れたレシャの母親に自分の妻の姿を重ね合わせたからかもしれない。日毎弱り行く躰の母親を励まし、レシャを実の子のように
可愛がっていた。母親が亡くなった後、そのまま自分の息子としたのは見る事の叶わなかった子供をレシャに見ていたのかもしれないし、
そのままでは一人で生きていけないであろう事を察したからかもしれなかった。
孤児で、同じように親のいない子供達と一緒になって孤児院で育ったカイエルは、当時からこの辺りでは名の通った子供だった。
幼い頃から怪力で、院の仕事をよく手伝っていたし、他の子供の喧嘩には仲裁に入るし、時には大人の喧嘩にまで手を出していた。
そんなカイエルがちょっかいを出していたからこそ、ウィルの息子となったからこそ、レシャもほどなくしてこの街に
馴染む事が出来たと言っても過言ではない。尤も、カイエルがいなかったら母親を失った哀しみに捕らわれたままだったであろうが。
大泣きするレシャの姿を笑う事もなく、母親に縋って涙を流す少年の傍にただ黙って付いていた。
母の葬儀が終わり墓の前から動こうとしないレシャに付き添う形で、二人残された。その後でぽつりとカイエルはレシャに言ったのだ、
親の顔を知っているだけいい、親とのの思い出があるだけいい、と。
それから、二人は色々な話をして、泣いて、笑って、――現在に至る。街の人間は誰も知らないレシャの秘密を、
カイエルは知っていた。カイエル自身の秘密も、レシャだけは知っていた。二人は、無二の友となった。
「―――ああ、参ったな」
ぽつりとカイエルは呟いた。偉そうな事を言っておきながら、自身もくるものがあったのだ。
「ああ、情けない」
もう一度、自嘲するように呟く。
カイエルにとってレシャは、素直じゃない割に出来のいいというアンバランスなライン引きの弟のような存在だった。
母親の死後、レシャが涙を見せたのはウィルが死んで全てが終った後。後にも先にもそれだけだ。
ウィルの死の間際には「笑って見送れ馬鹿野郎」と言われたので、二人で笑って見送った。そんな別れだったから、
カイエルはウィルが死んだなんて全然実感がわかなかった。殺しても死なない様な威勢のいい人だったから。
死に顔を見ても、今にも「騙されやがって、ひよっこが!」何て言いながら起き上がりそうな顔をしていた。
それでも葬儀が一通り終って、この酒場に戻ってきて、静まり返ったこの場所で、もういないんだ、と実感した。
ここへレシャを連れ出しに顔を出すたび、「この悪がきが! 変な事レシャに教えんじゃねぇっ!」と笑いながら拳を振り上げる姿も、
もう見る事が出来ないのだと思うと、自然と涙が溢れてきた。遅れてやって来た実感と淋しさと哀しさに居た堪れなくなって、
隣に並んだまま店の扉を開いたにも関わらず中へ入ろうとしないレシャに視線を送ると同じようにして涙を流していた。
ああ、こいつもか――なんて思っていたらレシャとばっちり目があって、お互いにお互いを笑った。
自分を見るレシャはどうしようもないくらい情けない顔をしていたし、きっとカイエル自身も同じ顔をしていたに違いないから。
それから静かになった酒場で、商品の酒を片手に朝まで呑み明かした。
二人とも十代前半で世間から見ればまだまだ子供だったけれども、本当に小さな子供みたいに馬鹿騒ぎをして、
それでウィルとの別れを互いにしっかりと認識した。その時の最後の記憶は何とも間抜けな宣言だった。
オレ、オヤジの跡を継ぐ事にする。オヤジに負けないくらい立派にこの店を盛りたてて――、
急に立ち上がって何を言うかと思えばそんな科白で、言いを終らないうちにカウンターに突っ伏すようにして寝てしまったのだ。
何とも間抜けな姿だったが、おお、頑張れ〜なんて口走りながら後を追うようにしてカイエルも寝入ってしまったので似た様なものだ。
翌日、しかも夕方まで寝ていたものだから夕飯時に院に戻ったカイエルは、それはこっぴどく叱られた。
ウィルの件で夜は戻らないかも――と理解のあった院としても、一晩以上経って、
更に物凄い酒の臭いをさせて帰って来たのだから無理もない事だった。酔っ払いって哀しい。
レシャの方は、その最後の宣言は記憶してなかったのだが、それでも更に翌日には酒場ウィンは通常営業の形を取っていた。
若きというには幼すぎる新マスターに賛否両論だったが、ほどなくして髪型を変えたレシャは何時の間にかその地位を安泰させていた。
今では近隣の砂漠に点在する街の中でも結構評判の酒場である。尤も、この街には“神”がいる分、
人の出入りが多いせいもあるのだろうが、それでも外の人間と対等に付き合えるだけの風格をこの店とそのマスターはしっかりと備えていた。
「はぁ…」
大きく息を吐き出して、だすんっとマグロを両断した。
「カイエル、それ、小さく切りすぎだと思うんだけど…」
ふいに、そんな声がすぐ傍から聞こえた。
「―――え?」
慌てて視線を走らせると、いつの間に戻ってきたのか隣に並んでまな板の上を眺める銀の髪が目に入る。
「セ、セレスちゃん…。いつの間に…?」
「今戻って来たとこだけど、話かけても反応ないし。無心で何を切ってるのかなって見に来てみたんだけど…」
そう言って自分を見上げる姿に思わず苦笑する。
「おぉ、ごめんごめん。ちょっと考え事をしててな、気付かんかった。お帰り。…レイトもご苦労さん」
そう言って、不満そうな顔でカウンターに乗りせっせと羽根を広げてついばむ姿に視線を送る。
「うん、ただいま。―――それで、凄い難しい顔してたけど、何考えてたの?」
笑みを浮かべて暢気な声で問い掛ける姿に、瞬間カイエルの思考が停止し、
「―――え? あ、ああ…、いやぁ…。ほら、何だ…。そう、コレ! 珍しいから。どうしたもんかと思ってさ。いやー、よかったよ。
セレスちゃんが帰って来てくれて。戻って来たらコレの調理法とか聞こうと思ってたんだ、美味しいって薦めたんだってな、レシャに」
まくし立てるように言い切った。
「…うん。あのね、生で食べても大丈夫なんだよ、これ。美味しいの」
「なまっ!? マジで?」
「そうだよ。私も最初はびっくりしたけど。…カイエル、ちょっと驚き過ぎじゃない?」
全身で引きながら目を見開く姿にツッコミを入れつつ、
「でもね、ここは砂漠の街だし、生より焼いた方が安全かなって。それにステーキにすると凄く美味しいの。私は、
生でよりもそっちの方が好きだし」
そう付け加えた。
「へ〜そうなんだ。―――コレ、切りすぎ?」
「うん、ちょっと小さいかな。でも、そうだね…数が余りないし、このくらいの大きさの方がたくさんのお客さんに出せて、
逆にいいかもしれないね」
にこにこと笑顔でのフォローにカイエルは軽く胸を撫で下ろした。
「そりゃぁよかった…。ここで失敗した、なんてレシャにばれたら……オレ、明日の朝日を拝めなくなるぜ。きっと」
あはははは、なんて固い笑いをするカイエルをちらりとレイトが一瞥し、
「いっそ、その方がいいんじゃない? 静かになって」
そんな事をさらりと口にした。
「うぉ、ひでぇ!」
「レイト、それは言い過ぎだってば。第一、ここは酒場なんだから賑やかじゃないと駄目なんだから」
にこやかにフォローにならぬ科白を口にし、
「所で、レシャはどこいったの?」
きょとんとそんな事を尋ねる。その手には買って来た香辛料の入っていると思われる袋を抱えるようにしたままだ。
「あー…レシャなら、酒蔵。貯蔵の確認に。それ、向こうの棚に同じ瓶のがあるから、並べるようにしておけば大丈夫だと思うよ」
そう言いながら、裏口への扉の傍にある高い戸棚を指差した。
「あそこね、了解」
「そうそう。―――あ、それ終わったらコッチも宜しく。何しろどう料理してやったらいいかわからんのだ」
「うん。…でも、アレだね。カイエルが、料理してやったら…何て言うと違う意味に聞こえるね」
そんな事を言いながらクスクス笑って戸棚を開くセレスに、あからさまにレイトが噴出す。
「セレスちゃん、そりゃないよ…」
およよ、と泣き崩れる仕草を取って呟いたカイエルに、
「だってそうじゃん」
あっさりとレイトが肯定した。
「ひでぇ!」
即座にツッコミ。
「だって初対面が喧嘩の真っ只中だったじゃん? しかも肉弾戦。もー相手の人は可愛そうなくらいぼっこぼこ。
ま、カイエルは一人で、相手は…何人だっけ? 三人? 四人? でもま、とにかく〜人を積み上げてガッツポーズの印象強すぎ」
「おおぅ、レイト! それは忘れろっ! そういうのは記憶から抹消しろぉい!」
「無理無理。だって凄かったもん」
「うがーっ! マグロの前にお前を料理してスープにしちゃるっ!! 記憶消し飛ぶくらい煮込んでやるぞ、このやろー!」
叫びながらレイトに手を伸ばすと、ひらりと羽ばたいて交わし、
「ほらやっぱり〜」
そんな事を言いながら天井の方へと移動する。
「このやろっ、降りて来いっ!」
「ヤだね〜」
暢気な声で異を唱えると、羽を広げて砂を落とす作業を再開する。
「むっかー! 卑怯者〜っ!!」
「―――カイエル、そのくらいで…。レイトにイチイチ付き合ってたら、堪忍袋幾つあっても足りないよ? それに危ないし、
包丁振り回してると」
ちょっと遠巻きに見守っていたセレスがクスクス笑いながらそんな科白を口にした。
「しかしだな〜セレスちゃん。―――オレ、思うんだが…。絶対レイトに嫌われてるだろ?」
肩を落としてまな板の上に包丁を乗せるようにして疲れきった声音で呟く科白に、セレスはきょとんとした顔を返す。
それから少し思案するようにして視線を逸らし、
「どちらかって言うと、好かれてると思うけど」
ぽつり、と苦笑交じりの科白。
「どっこがぁ?」
「あれってレイトの愛情表現だから。キライな人が相手だと、黙ったまま全然しゃべらないから。ああやって憎まれ口叩いてるのは、
それだけカイエルの事気に入ってるからだよ」
仕方ないといった風な表情で小さく笑いながらそんな事を断言した。
「とてもそんな風には……」
「見えないけど、そうなの。ずっと一緒にいる私が言うんだから間違いない」
「じゃあ、セレスちゃんに免じてそういう事にしておく。―――んじゃ、気を取り直して…コレなんだけど」
そう言って、まな板を指差したカイエルを見つめて、
「そうだね、レシャが戻って来た時に何も準備できてなかったら怒られそうだし」
至極不吉な科白をさも当然とでも言うかのようにあっさりと口にした。
「シャレになりませんぜー…」
がっくりと肩を落とした姿に、
「調理って言っても、凄く単純だから大丈夫。すぐに終るし。とりあえず…下ごしらえからかな。
材料用意するから、カイエルは切っておいてくれる? 一度に全部は大変だろうから、
今ある分は試しで使うとして、後少し、用意しておいた方がいいだろうしね」
そう言いながら香辛料の戸棚を物色する姿に、
「あぃよぉ。切るのはまかせれ!」
そう威勢よく答えて包丁を振り下ろした。
2:酒場ウィン END
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