そこはサディアと呼ばれる砂漠の西に栄える街、名はデルタ。
ほぼ正方形に形作られた街を縦横に四等分するようにして大通りが走り、そこは開けた商店街になっている。
様々な店が建ち並び、多種多様な商品が陳列されていた。砂漠の中にある街とは思えないほどの裕福さを見せている。
その理由はいたって簡単だ。
この街、デルタにはかつて世界を救ったという“神”が住んでいるからだ。
ほんの一週間前、このデルタより見て南方に位置する街に住んでいた“神”が死んだという噂が流れた。
不老であり不死とも伝えられている彼等、“神”が死ぬ事など本来有り得ない。
しかし、“神”の仇敵たる謎の存在があった。彼等はそれを敵対者――シャイターンと呼んでいる。
滅ぶべくもない彼等を滅ぼす事の出来る存在、シャイターン。それが人間であるかどうかすら、誰にもわからない。
知っているのは、“神”だけだ。
従って、一般に生活する人間にとってはまさに謎そのものであり、また、
“神”に絶望する人々にとっては唯一とも呼べる希望であった。
時期を同じくして、デルタを一人の少女が訪れる。
人語を解すレイトという名の一羽の白い鳩を連れ、イーヴェヴァセレスと名乗った少女は、
幼いながら見事なまでの白銀の髪に銀と翠の瞳を合わせ持つ魔然師であった。
「セレス!」
人が賑わう街中でまだ若い男の声が響き渡った。腰を落として俯いていた小さな影がそれに反応するようにして上体を起こし、
光に照らされた髪が銀色に波打った。
「はぁーい」
元気に返る声はまだ幼さを残しており、声に合わせて振り返った姿もまだ子供だ。
「何?」
そう言いながら走り寄って行くのは、二十代半ばと思われる一人の青年。
「材料、頼んでいいか?」
少女――セレスを見下ろすようにして問い掛ける。
「え?」
「嫌ならいいんだ、別に。変わりにこっちを持って行ってもらうから」
そう指差したのはセレスの身の丈ほどもある大きな二つの袋、とてもではないが持っていけるとは思えない代物だ。
引きずってでも無理に思える。
「…多くない?」
ぼそっと呟いた姿に苦笑を返すと、
「仕方ないんだ。今日は満月だろ? いつもより客、多いからさ」
だから多めに材料を買い占める必要があるのだと、青年は言った。
酒場のマスターを生業にしている彼はその職業柄か外見そのままにしっかりとしている。
「う、ん」
ちらりと横に並ぶ大荷物を見やる、どう贔屓目に見てもそれはセレス自身よりも重そうに見える。
「持って行けそう?」
「―――ううん、きっと無理」
可愛らしく左右に首を振って答えた。
「じゃ、買出しを頼む。ここに書いてあるから」
その科白に一つ頷きを返して、差し出されたメモを手に取って見つめる。
それからきびすを返すと肩越しに振り返り、
「行って来ます」
「行ってらっしゃい」
満面の笑顔で告げてそう口にしてから走り出したその背を見送って肩を竦めると、青年はすぐ傍の大荷物に手を伸ばした。
それら一部始終を見ていた二人の主婦が、去って行くセレスの背を見つめ、呟く。
「ほら、あの娘でしょう? 一週間ぐらい前に来たって言う」
「そうそう。確か…人を捜しているとかで。小さいのに大変よねぇ」
コクコクとおばさん特有の頷きをお互いに交わし、今度は青年へと視線を移した。
「レシャが面倒を見てるそうじゃない?」
見た目よりも筋肉がついているのか、大きな荷物を二つ両肩に担ぐ青年――レシャの姿を眺めながら問い掛ける。
「ええ。…自分と重なったのかしらね」
「そういえば…、そうね。レシャがこの街に初めて来たのも、あの娘ぐらいかしら?」
「―――そう、よね。だって…レシャが来てから…そう、七年。もう七年にもなるのよ」
記憶を弄るようにして繰り返し呟いた。
「早いものね。本当、初対面の頃は無愛想だったわよねぇ、レシャ。酒場のご主人が引き取ったって聞いた時は、
そりゃもう…びっくりしたわ」
「そうよね。あの主人とは似ても似つかない子供だったものね」
二人の主婦の脳裏には、酒場の前マスターである男に連れられた無愛想な子供の姿が浮かぶ。
今でも十分過ぎる程に無愛想ではあるのだが、以前よりはこの街に打ち解けていると言える。
男はその幼い子供を引き取ったと言い、来る客全てに、しかも一人ずつに紹介していたのだ。
自分の息子である、と。
レシャヴェル・イツジュザー、それが彼の名前。義父がレシャと呼んでいたため、今や街の人間にはそれが定着していた。
当時、年は八才で父を知らずに育ち、母と共にこの街を訪れたが死に別れて一人残された、まだ幼さを残した少年。
二年前にレシャを引き取り育てていた義父が他界し、彼はその後を継ぎ今は一人で酒場を切り盛りしている。
客足は代が変わっても衰える事はなかった。
現在レシャは、十五才。
その外見と雰囲気から軽く十才は老けて見えるという欠点を持つ多感な少年、のはずである。
とはいえ、その外見のお陰で外からやってくる人間達とも酒場のマスターとして対等に付き合っていけているのだが。
有り難いのかどうか、正直よくわからない。
示し合わせたようにお互いに微笑み合うと、主婦達はしんみりとして言った。
「懐かしいわねぇ」
「本当に…」
自分達の世界に浸る主婦達の後方、数十メートル先で白い鳩がセレスの頭上を飛んでいた。
「あ、こらーッ! レイトッ!」
叫んで、セレスは天高く伸ばした腕を懸命に左右に振っている。それを嘲笑うかのようにして飛び回る姿は、どこか満足げだ。
「返しなさい!」
よくよく見てみると、その嘴に紙のような物を咥えている。
「返しなさいよ!」
それは、一枚の紙だ。先程レシャより手渡された、所謂お買い物メモ。
届きそうで届かない位置にメモを漂わせ、必死にそれを掴もうと手を振るセレスの指がついにそれを掴み取った。
その勢いに引かれて降下を余儀なくされたレイトをきつい目で睨むが、
それでも離す気は毛頭ないらしく必死に紙へと喰らい付いている。
「離しなさい! レイトッ!」
レイトの頭をメモから引き剥がそうと躍起になるがそれに負け時と喰らいつき続ける。
ふいに、セレスとレイトの視線が合った。
「―――――ッ!」
レイトの自分を見あげる視線が「嫌だ」と告げていた、それを目にしてセレスの動きがぴたりと停止する。
堪忍袋の緒が切れた、そんな雰囲気。
「ほぉ…」
低い声音で呟き手を引いた姿に、ふと、レイトは嫌な予感を走らせた。
バキッ!
どうやら予感は当たったらしい。
渋々といった風にセレスの肩へと大人しく止まると、自らの頭を左翼で摩った。
殴り付けた当の本人の方は何事もなかったかのように取り戻したメモを見つめているのだが、
その紙の上の方は逆三角形に破れていた。当然、そこがレイトが必死に咥えていた場所である。
「イーヴェヴァセレス…」
ぽつりと名を呟いた。
「すぐ暴力に訴えるのって、止めた方がいいと思うぞ。一応女の子なんだから」
その科白にメモを持つ手が軽く震える。
「五・月・蝿・い! ほっといて。そんなの、レイトに対してだけに決まってるじゃない」
きっぱりと断言してから、
「自分が悪いくせに」
そう付け加える。
その科白にレイトは瞳を細めた、どうやら不服、否、いじけてしまったらしい。
「だって…、イーヴェヴァセレスがサボってるから」
泣き声にも似た弱々しい声音で呟く。
「サボってないでしょう。人聞きの悪い」
反論したセレスに、ぷいっとそっぽを向いた。
「十分サボってるじゃんか! あーんな奴の事手伝ったりしてさ」
「だってお世話になってるでしょう? 大体、毎日美味しいご飯が食べられるの、誰のお陰かわかってるの?」
ブツブツ不満を呟くレイトに間髪入れずに言い切ると、ちらりとその姿を一瞥する。
「金ならあんだろー、…大量に」
それで十分事足りるし、世話になっている分も払える、そう言いたいらしい。無論、そんな事は言われずともわかっていた。
だからと言って、お金を支払っていては得られないモノがある。元々セレスはそれが目的で、そのために手伝っているのだから。
「えーっと、これと…それと、あ、後、あっちのリンゴも下さい」
「へい、毎度」
自分の苦言をまるっきり無視して頼まれた品物を餞別し、それを購入している姿にひくりとほほを引き攣らせると、
八つ当たるようにして店の主人を睨んだ。
「ありがと」
纏められた品物を受け取るとすぐさま次の買い物へと移ろうとする。
既に両手一杯の荷を持っているというのに、買い物を続けるつもりのようだ。
「イーヴェヴァセレス、オレの話…聞いてる?」
「うー、ん。…聞いてるよ」
生返事としか取れない声音にレイトは深い溜息を漏らす。本当に聞いていたのかどうか、怪しいものだ。
「イーヴェヴァセレス、なぁんであーんな奴を手伝ってんだよぉ」
「何で、って――」
眉を寄せて呟く。
「酒場は人が集まるから、色々情報も入るし」
取ってつけたような科白、と思いつつもレイトは一つ頷く。それに反論する所などはないのだ、確かに、
酒場という場所は街の中と外の人間とが入り乱れ集まるために様々な情報が飛び交っているのだから。
しかし、だ。
「そーかも、しんない。…そーなんだけど、それって…何か、可笑しくない?」
「何処がよ?」
「だってさ。何処にいるかはわかってんだろ、既に。ていうか目立つし?」
「入り方なんか知らない」
「てきとーに、乗り込んでいけば――」
いいじゃん、と続けようとしたレイトはそこで躰を強張らせた。
「そんな事したらすぐバレるじゃない、相手が相手なんだから。―――それにね、
酒場っていう所は何も情報が入るばかりじゃないの。逆に、出て行ったりもする訳。意味、わかるでしょ?」
静かな眼差しでレイトを睨むようにして淡々と告げて、クスクスと笑い始める。
「大丈夫、すぐに見つかる。そうね、もしくは……引っかかってくれるわよ」
がらりと表情を変えて不敵に微笑んで見せた姿にげんなりとレイトは息を吐き出した。
「…暢気だな、イーサ」
ぼやく姿をぎろりと一睨みし、
「その呼び方は止めてって言ってるでしょ」
そう、小さく口を尖らせた。
デルタには“神”が住む。
だが、デルタには神はいない。そこに住む人間達にとって存在意義のある神はいないのだ。
デルタの中央には、一つの建物が聳え建っている。
四方からそこへと伸びる大通りは、それを囲むようにして互いに交じり合っていた。
その建物は大きく高い壁に囲まれており、その内部を目にする事の出来る人間はほぼ皆無。
当然、建物の中へ入る事など出来る人間など存在しないに等しかった。
そこへの出入りを赦されているのは、そこに住む異形の者と力を認められたある一部の魔方師と魔然師のみ。
また、数10年から数100年程度の割合で、気に入られてそこへと呼ばれる者が極稀にいるらしい。
そこは“神”の住まう館。
デルタに座す“神”の住みし、場所。
カツンッと床が甲高い音を上げた。ガラスのような材質で造られたそれはよく磨かれており、
そこに立つ者の姿を鏡のように映し出している。
全身を黒で統一した出で立ちに奇妙な形のコートを腕にかけた、幾分痩せ型の小柄な男。
「―――畏まりました」
暫くの沈黙の間をおいて、男はその体躯に似合わぬ重く低い声で答えた。
深々と一礼してから見つめる視線の先には、天蓋のついたベッドのような物が置かれている。
幾つも重ねられた薄手のカーテンに覆われているためその向こうを見る事は叶わぬが、
薄っすらと映る人影からそこに誰かがいる事だけはわかる。
男の態度から、その向こうにいる者が彼にとっての主人なのだろう。
「ああ」
短く答え、カーテンが微かに揺れる。
その隙間から覗いた男とも女とも区別のつかないその姿は、いやに人を引きつける不可思議な魔力を秘めていた。
漆黒の緩やかな衣装に身を包んだその上を金色に波打つ髪が流れ、同じ色の瞳が哀しげに伏せられている。
この世界で至上に位置する絶対の存在。
「下がれ」
静かな声で命令を下し、再びその姿はカーテンに閉ざされた。
それにもう一度、深い礼をして男はそのままきびすを返して部屋を後にする。だが、カーテンの向こうの陰は動く気配すら見せない。
扉の閉じる音がし、それでもなおそこに座したまま。辺りは静寂に満ちている。
部屋に満ちる気配はその存在のままに例え様もないほど不可思議なものだったが、
そこに微かに混じるのは哀しみにも似た暗いもの。
「そうか」
ふいに、静かな、静かな声が静寂の中に響いた。
「―――ラプサが、死んだ…か」
しんっと静まり返ったその部屋で、小さな呟きが何の感情も篭らぬ声で誰とも成しに告げられる。
ここ数日続いていた、胸に宿る酷い焦燥感の正体がそれだった。
だが、それがラプサの死によるものではない事を彼は理解していた。
彼等にとっての死は人のそれとは少し異なる。
彼等という存在は、それ自体が出鱈目で出来ていた。それを形作っているのはその身の全てに宿る記憶と意思と力、
それらは全て譲られたものではあるが形を成したその瞬間から固体としてそこに存在しうる者。
例えいかなる状態におかれようとも、その形を成した、その瞬間に立ち戻るよう造られいる躰。
切られて血を流そうとも、それは有り得ない事として処理され、元の状態に戻るため傷は塞がる。
腕が切り落とされれば、落ちた腕は支えを失って散りとなって消え、残った躰の方には新たな腕が形成される。
ばらばらにされたとしても再生に少々の時間を必要とはするものの、元の姿そのままに甦るのだ。
だから、彼等には人間の言う死というものは該当しない。
だからこそ、人々からすれば不老不死の存在としてそこに在り続けているのだ。
形を成したその瞬間を永久的に保つだけの躰、それは確かに不老であり不死でもあろう。
だが、それでもその存在は無ではなく有だ。
確かに、そこに在る者。
ゼロではなく、イチである者。
だからこそ、彼等にも死は訪れるのだ。
その身に死を訪れさせるのはとても簡単だが、同時にとても困難な方法。
なかった事にする。
ただ、それだけだ。
彼等自身を構成させている記憶と意思と力、そのどれか一つでも失えば固体としての存在は不可能だ。
その後は切り離された腕と同じように散りとなって消えるだけ。
「―――シャイターン…」
その名を呟く。
ラプサが最後の瞬間に対峙した者、その身を滅ぼす事の出来る存在。
そして。
その胸に宿る酷い焦燥感の正体が、それだ。
ラプサの死ではない、その死の直前に感じたそれだけが強制的に精神を共有する者に伝わってきただけの事。
だが、彼等は全ての者が同じように精神を共有している訳ではない。それぞれその存在が始まった瞬間から共有する者は決まっていて、
その数は区々だ。それでいて共有とは言うものの、実際のところは一方通行だ。
誰かが、別の誰かの精神を共有しうるともその逆は有り得ない。
そして、強制的にそれが伝わって来たのは何もこれが初めてではない。
過去にも同じように酷い焦燥感に教われ、ほどなくして誰かの死が伝えられた事があった。
「九度目、か…」
瞼を閉じ、思考をクリアにする。
こんな事になるのであれば、視覚も共有しておくべきだったと今更ながら思った。
「―――ラプサ。お前は最後の瞬間に何を見た…?」
1:小さき旅人 END
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