Euthanasia



 今日、この時程、自分を愚かだと思ったことはなかった。
 “彼女”は、にっこりと優しい瞳に微笑みをどこか哀しげに浮かべている。
「私を、殺しなさい」
 凛とした澄んだ声音が、命令する口調で、再び言い放たれた。
 それが、オレにどんな効果を齎すか“彼女”は知らずに。




 誰が呼んだか不思議の世界、ルードティア。
 その中心に位置する大陸、アパッチ。
 魔物と人、精霊等が入り乱れて生息しているこの世界。
 そんな訳だから、どこの国にも勇者や魔術師達の伝説とやらが、それこそ魔物やそれに襲われた人間等の数ほど、伝えられていた。
 その中で、尤も世界に知られているのが、この大陸アパッチのロン・ノルという名の国に伝わる勇者伝説。
 その信憑性はかなりのもので、無論、その理由が三つも存在していた。
 第一に、ロン・ノルの建国者で初代国王が、彼の者である事。
 第二に、彼の者の物と伝えられる、怪しげな古墳がある事。
 第三に、城の裏手の森に彼の者が愛用していた剣、所謂“聖剣”とやらがある事。
 以上3つがそれだが、その“聖剣”には妙な言い伝えまでもが残っていた。
 その内容は次のようなもの。
 “聖剣”を封印する時、その剣の精霊とやらが、これより5000年の後に、再びその剣を手にすべき者が現れる。 剣の守人の役目を負った一族は律儀にそれを数えていて、剣の封印がほどこされてから、 丁度5000年目のその日に生まれた1人の男子を勇者の再来だと宣った。
 それから16年間、その男子は何も知らず、知らされる事なく育てられた。
 そうしてある朝、行き成り「お前は勇者だ」と言われ、“聖剣”の前に連行される。
 忘れもしない、16の誕生日をやっと迎えた、―――――オレ。
 そして、剣の封印を解いてみろと、守人は言った。
 当然の事ながら、そんな方法をつい先程「勇者だ」と言われた16の子供が知る訳がなく。 長年勇者を待っていた守人には悪いが、オレは、それを心の底から嬉しんだ。
 だが―――――。
 守人達にせかされて剣の柄に触れた途端、封印はその効力を失った。
 そんな理由で、完全に勇者に祭り上げられてしまったという事と、暇だったという事も手伝って、オレは“勇者”を引き受けた。
 そして、風のように3年が過ぎ去った。
 数々の苦難を共に乗り越えてきた、掛け替えのない仲間――“彼女”が、いつの日にか、オレの生きがいとなっていた。
 だから、今では“彼女”のためだけに戦う日々だった。
 それなのに―――、“彼女”は微笑みを浮かべたいつもの表情で、
「私を、殺しなさい」
 そう、はっきりと言い切ったのだ。


 “彼女”は人間ではなかった。
 オレの持つ“聖剣”よりも長い歴史を持つ、精神体の可憐な少女。
 “聖剣”でしかその身を傷つける事の叶わぬ存在。自らの死を選ぶ事の出来ない、生きる事を余儀なくされた、哀れな存在。
「オレには………出来ない」
 俯いて、小さく呟く。
 オレの呟きは、自身の心に従う、人間としての本心。
「何故ですか? 3年前の約束、お忘れになられましたか?」
「……覚えてる」
 そう―――――。
 確かに、覚えている。
 “聖剣”の持ち主として、“奴”を消滅させるか、再び封印する事が出来なかった場合、“奴”と一つの命を共有している、 本体である“彼女”を殺す事。
「出来ない」
 囁くようにして呟いたオレに“彼女”が、
「何故ですか?」
 哀しそうに問いかける。
 だが答えは至極単純で、簡単なもの。
 好き、だから―――。
 “彼女”に躰を取り戻してあげたかった。人間として、幸せになって欲しかった。
 だからこそ、“彼女”そのものを殺してしまう事など、オレに出来様筈がなく、そんな思いすら口にする事も出来なかった。
「―――この5000年…」
 答えぬオレに、ゆっくりと“彼女”は呟く。
「私はアナタを待っていました。それを真に扱う事の出来る者を。―――私、いいえ、あのコを消滅させるために。 全てのものを滅ぼして生きようとしているあのコと共に、悠久の時を生きるのに、疲れたから…。 もう、大切な人が殺されるのを、見たくない」
 そう言って、静かに“彼女”はオレを見、返事を待っていた。
「だから…、殺せ、と?」
 押し殺したようなくぐもった声音で問い掛ける。
「はい、初めに約束した通りに」
 全てを覚悟した、落ち着いた声。
 “彼女”との約束は、どうでもいいように生きて来たオレの、適当な約束。
 あの時は考えもしなかった。“彼女”の存在が、自分の中でここまで大きくなるなど。
 だからこそ、後悔、していた。
「オレには、無理だ…」
 先代の“聖剣”の持ち主によって、“力”、“精神”、“体”、の3つに分けて、この大陸の秘境の地に封じられた“奴”。
 すでに“力”と“精神”は解放され、残るはこの場に封印されている“体”のみ。
「オレは、勇者にはなれない」
 世界中の命ある者達よりも、1人の元人間の方が大切だから。
 それは、世界を救うべき役目にある勇者の宿命と反する思い。
 だが“彼女”はオレの言葉にはっきりと、「いいえ」と言った。慌てて顔を上げたオレに、“彼女”は微笑みかけてくれる。
「間違い、ありません。自信を持って下さい」
 自信など持たせてどうするのか、そんな事をすれば己の命は無いというのに。
「―――私は、もう、十分過ぎるほど、生きました」
 まるで、オレの心の中を覗いたかのような事を言い、
「私の願いを叶えて。………それが、アナタの役目」
 そう付け加えた。
「何故……殺す事が?」
「私は、死にたい」
 はっきりと、語尾を強めて言い切った。
「そして、私達を殺せるのはソレだけ」
 呟いた“彼女”の頬を、光るものが伝う。
 初めて目にする光景だった。
 “彼女”だって、本当は死にたくない筈だ。
 体を取り戻して、普通の人間として生きたいと願っていた筈だ。
 だからこそ、オレ達の3年間は、存在した。
 けど―――――。
「後悔、は…?」
 右手を剣の柄へと向かわせながら問いかける。
「一つだけ。でも、平気です。アナタが、全てを終わりにしてくれるから…」
 その言葉に、オレは右手に力を込めた。
 “彼女”の願いを叶える事が出来るのは、オレだけ。
 ―――――だから…。
 心の中で呟くと、シュッと勢いよく鞘から剣を引き抜き、高く振り翳した。
 今ならば、“彼女”の“体”だけは、封印によって永遠に残る―――、確かな存在の証明。
 そして、それによるオレの――勇者としての――存在の証明。
 視線を戻し、“彼女”を見つめた。
 “彼女”の、初めて逢った時から変わる事のなかった微笑みに、この3年間が走馬灯のように思い出された。
 いたたまれず、天を仰ぎ、剣を見つめる。
「“聖剣”…―――最後の獲物は……お前と5000年、共に在った者。全ての思いを託し、自らの消滅を…願った者」
 右手にある、その剣に向かって語りかける。
 剣は静かにそれを聞いていた。
 もしかしたら、こうなる事を“彼女”は5000年も前から、いや、それよりも遥か昔から知っていて、待っていたのかもしれない。
 何も見たくないといった風に、オレは難く瞳を閉じた。
 そして、右手に渾身の力を込め―――――。
 それを振り下ろした。


 静かな時が続き、カチャッと剣が音を出す。
 オレの、閉じたままの瞳から一雫の涙が、零れ落ちた。
 ただ、一雫だけのそれは、生まれて始めての涙。そして、最初で最後の涙。
 ゆっくりとした動作で、再び剣を振り翳す。
「それと」
 怖いくらいに落ち着いた声の呟きは、そこで途切れた。
 カラァ――――ン。
 そして響き渡った、剣の断末魔にも似た、悲痛な叫び声。



 それからは、静寂な闇だけがそこにあった。



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