カタッ―――――。
何処かで音がした。
カタタッ―――――……。
何かが、壊れる音が。
ある日、一人の少年が現れた。
雨の降る、暗い日に。
「どうして、我慢してるんだ?」
そう呟きながら、闇の中から現れた。
ぽかんとして見ていた私にその少年はもう一度言った。
「どうして…我慢してるんだ?」
何のことかわからずそのまま無言を返していたら、
「負の感情の事だよ」
そう、ぶっきらぼうに呟く。
「ふ?」
私は思わず問い返した。
「そう。―――怒りとか、憎しみ…」
頷いてから続けられた言葉に、一瞬どきりとした。
「どうして、そんな事をあなたに言われなきゃならないの?」
何故か、そんな科白が口を突いた。
「あんたが可哀想だから、さ」
ニッと笑って言う姿を、私は慌てて見つめ返した。
「苦しいだろう…我慢しててさ」
何もかもを見透かしているような瞳で呟く。
思わず、その瞳から視線を逸らした、何故だか酷い不安感にかられた。
「どうして…他の人間は周囲に撒き散らしているのに。あんたはそれをやらないんだ?」
真っ直ぐな瞳で本当に不思議そうに問い掛けてくる。
「そうした方が、すっきりするだろう?」
答えぬ私に、そう続けた。
それからじっと黙り込む、その姿は私の返事をまっている風だった。
だから、―――言ってやった。
「本当に、そう思う?」
少年を睨み付けるようにして問い返した私に、その口から出た科白は少年にとって予想外のものだったのか酷く面食らった表情をする。
「…どうして、そんな事ですっきりすると考えるの?」
私は、強く言う。
「だって、人間ってそういうもんだろう…?」
くぐもった小さな声で答えたその額には僅かに汗を浮かべて。
「お前は、何で…?」
「私だって、八つ当たりするわよ!」
怪訝そうな声に思わず、叫んでしまった。その後ではたとして我に返る。
「…誰に?」
困惑した顔で少年は問う。
「自分に」
さらりと答えた。
それを聞いて驚いた顔をしてから、初めて嬉しそうな笑みを少年は浮かべる。
「何がおかしいの!」
妙に馬鹿にされたような気分になって、また叫んでしまった。
「別に。でも、それって何の意味があるの?」
気を取り直して、といった風の問い方。
「物が壊れない」
「は?」
私の科白にマヌケな声を出す。
「怒ってるからって、そんな事で物を壊してどうするの? 後で自分が後悔するのが嫌なの」
今まで自分に向けられていた全ての問いに答えるようにして言い切った。
「経験者は、語る…か。でもさぁ、それって…」
そこまで言って眉を潜めると言葉を止める。どうやらその先を言っていいものかどうかを迷っているようだった。
「―――自分が、壊れない?」
数秒の間を置いて、思い切ったように言葉を紡いだ。
「何、それ?」
「いや…わからないなら、別にいい」
そう、小さく呟く。
何故だかそれが、別れの言葉のように聞こえた。
「私、偽善者ぶってる?」
「いいや、あんたが……。あんたは、人間だよ」
言ってにっこりと笑う。まるで今にも消え去りそうなほどに儚げな、そして何処までも優しい微笑み。
「人間も、捨てたもんじゃないな」
口裏でそう呟いて、今までないほどに綺麗な微笑を浮かべる。神秘的な、人を引き込まずに入られない不思議な魅力のある微笑。
それから、くるりと背を向けると、雨の中に一歩足を踏み入れる。
だが、降り続ける雨は少年に降らずにその少し上空で蒸発するかのようにその存在を消し去っていた。
「あんたは、大丈夫だな…」
そのままの状態で呟くと、ふっ、と闇に飲まれ消えていった。
その時になって初めて、その少年が人間ではなかったという事を理解した。
だけど、―――――私。
時が経つのは早いもので。
私が彼――あの少年――と出会ってから、既に一年が過ぎ去っていた。
あれは一体誰だったのか?
だが、そんな事よりも私は、彼が最後に見せたあの笑顔が忘れられなかった。
限りなく優しく、けれども何処か哀しみに満ちた瞳で微笑んだ、あの少年が。
他人に、物に、八つ当たりをしなくなってから既に五年。
だけど最近、自分がおかしくなっているような気がしていた。
「自分が、壊れないか?」
そう言ったのは彼の少年だ。
あの時、彼のそう言った言葉の意味がやっと理解できるような気がした。
人間で言う所の<我慢の限界>が来たのかもしれない。
感情の抑制が利かなくなっていた。
だから―――。
五年間、溜めに溜め込んだ<怒り>が、もし、今爆発したらどうなるのだろうか?
「あんたは、大丈夫だな?」
小さく笑う姿と共に思い出される、声、科白。
そんな事、なかった。
何故なら私も戦う生物だったのだから。
神では、ないのだから。
―――ほら、また誰かが、私の感情を揺すりに来る。
抑えきれなくなる…。
この怒りが表に出たとしたら、
「私は何をするだろうか?」
軽く呟いて、瞼を伏せる。
戻らない長い時を考えて、自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。
もう、怒りなんてない。
私にはただ―――――、空しさだけが残って。
「―――あなた!」
瞳に映るのは、いつか見た少年。
「お帰り」
微笑んだ。あの時の、別れ際に見せた極上の微笑。
ああ、そうか―――。
―――そう、だったんだ…。
■MENU
■HOME