ふぅ、と肩で大きく息を付いて、七美は双眸を伏せる。
「七美…?」
背後から哮之の躊躇いがちの声がかかった。
「ちょっと、待って下さいね」
軽い口調で返事をして、七美は気を鎮める。
頭の中をクリアにし、意識を、里見七美、自身へと集中させ、それに従うかのように、髪の色が元の漆黒へと変わった。
「………これで、いいかな。ルディ?」
くるりと反転した七美の瞳もまた、黒に戻っていた。
「はい。……本当に大丈夫そうですね」
「うん。前みたいな事にはならないと思う。きちんと、………全部、とは言い切れないけどね。人の身ではモロくて、
手に余る。完全には使いこなせないし、使えないのがほとんど」
「そうですか。ですが、それなら、もう心配もいりませんね」
「ん〜。まぁ、気を付ける」
「はい、そうして下さい。………それでは、私は、これで失礼します」
「え…? もう? せっかくだから、九里さんのトコの黒曜と話とかしてみたりしない?」
七美の奇妙な申し出に苦笑いを浮かべると、
「それは、またの機会に。流石に、今回は疲れましたので…」
そんな科白を口にした。
肉体的に疲れるなどない存在の筈だが、色々と気を揉んで精神的に疲れたのかもしれない。一重に自分のせいだろうと七美は苦笑し、
「そっか」 と小さく呟いた。
ルディの眼前まで歩み寄り、右手を伸ばしてその手に触れる。
「色々、有り難う、ルディ。また遊ぼうね」
微笑んで告げた科白に軽い頷きを返すと、すうっと吸い込まれるようにルディは七美の手の内に消えて行った。
そうしてから自身の掌をじっと眺めるようにして、
「九里さん、帰ろう」
呟いて、くるりと哮之に向き直る。
「………そ、だな。何かもう、色々有り過ぎて」
「頭混乱しちゃってる?」
「いや、そーじゃなくて。……お前に言いたい事が色々あるんだが、果たして何を言ったらいいのやら」
「……何?」
「う、うん。そう改まって聞かれると、困るんだが。混乱、してるんだろーな…。―――――実感ないんだが、
あの“陰族”の話だと、オレ、カーリュとか言うヤツで、いやこれがな、自分でもそうだっていう認識があるんだけど、
それだけで他さっぱりだしさ。自己認識してるのに、その確証が全くない」
「そうなの? ふぅん。でも、九里さんは九里さんだよ?」
「だよな…」
「でも、カーリュなのも本当だよ」
「………そっか」
「私は、七美だよ。里見、七美。それ以外の誰でもない。ただ、昔、アークっていう名前で、生きてた事があるってだけ。
それをちょっと思い出しただけで、私が私なのは変わらないよ。今、こうして生きてるのは、里見七美、若干16才の女子高生です」
えっへん、と胸を張るような言い方に、思わず哮之は吹いた。
「ちょ、何で笑ってるんですか!」
「え、あ、いや……。七美だよなぁっと」
「……だから、私は私だって言ってるじゃないですか」
「ああ、そうだよな」
「そーです。………だから、九里さんだって、九里さんですよ」
「う、ん。そう、なんだろうな……でも」
「昔、カーリュっていう名前で生きてた頃があった、それだけです」
「………断言しちゃってんな」
「だってそうですから」
「………そっか。でも、さ、七美は……その、何だ。アークだった頃の記憶、あるんだろ?」
何気なく尋ねたそれに、何故か七美は押し黙った。
「七美?」
「………あります、けど。全部じゃないです。私自身の記憶だって、1年前の今日、
朝昼晩に何を食べたって言われても、流石に思い出せないです。それと同じで、全部、しっかり記憶してるって訳じゃないんです。
ただ、そういうことがあったって、断片的な、何ていうか………過去の思い出、そういうのと似たようなものですよ」
「そっか。うん、それならいいんだけど……いや、余りよくもないんだけど」
「何ですか?」
「………オレ、さっぱりそういうのナイんだけど」
「なくていいです」
苦笑しつつ、視線を逸らすようにして呟いた哮之を、ばっさりと七美は斬り捨てた。
「九里さんは思い出さない方がいいです。カーリュの事」
「………オレ、何かしたか?」
「いいえ。何も。―――――何かしたのは、アークの方ですから」
途端に悲痛な顔になった七美は、重い口調でそう呟いた。
「……七美?」
「だから、思い出さない方がいい。と、言うか………思い出さないで、欲しい」
今にも泣き出しそうな声に、哮之は出かけた言葉を飲み込んだ。
形の良い眉を顰めて、恐らく涙を堪えているのであろう七美の姿に、不安だけが増大するが、それでも黙った。
ややあって。
「九里さん」
「ん?」
「帰りましょう、きっと、みんな待ってる」
儚げに微笑んで、くるりと背を向けた。
長い長い漆黒の髪を眺め、哮之は自嘲するように肩を竦めると、
「んじゃ、もう1つだけ、いいか?」
性懲りもなくそんな事を口にした。
そうだな、とか。ああ、とか。
頷くだけでよかったのに何を余計な事をと、不服そうに眉を顰めて自分を振り返った七美の姿を見て後悔した。
でも、もう遅い。
「何ですか? まだ何かあるんですか? それとも、何ですか? 九里さんは、
私の古すぎる古傷をえぐりたいとでも 「いや、違うから! っていうか七美、どした? 何か性格変わってるぞ、
それとも怒ってるのか!?」
「別に怒ってないですが」
否定すんのソコだけ、と内心哮之は呻いた。
「それと別に性格が変わったとかじゃなくて……」
何故か言い淀んだ。
「………元々、そういうキャラ?」
何故か、そう呟いてしまった瞬間、殴られる、と哮之は思った。
「……………で、何ですか? 聞きたい事って」
末恐ろしい間を置いて問う声は、やっぱり不満そうな色で。
それで何となく、哮之は悟ってしまった。
元々、そういう性格なんだろう、と。
そう納得してから、思わず、哮之の口元が緩んだ。
「………どうして笑ってるんですか?」
「え、あ、いや………。笑ってるか?」
「笑ってます。何か聞きたい事があったんじゃないんですか? それに、どうして兄一郎さんみたいな笑い方してるんですか。
九里さんこそ、キャラ変わってます」
「いや、そうじゃなくって…。何てーか、嬉しくって」
「………何がですか?」
「七美が素直なのが」
「なっ!?」
不満そうだった顔を、朱に染め上げる。
そんな七美に、哮之はいたずらが成功した時の子供みたいな顔をして、2歩、進んで手を伸ばし、
わしゃわしゃと七美の頭を撫でた。
「べ、別に私は…」
「あー、いやいや。そうしてろって。そーやって本音で語られた方がいいって、な?
オレもやっとこ完全に信用してもらえたんだなーと、喜びを噛み締めてんだからさ」
「………九里さん、そういう科白をどうして臆面もなく言えるんですか。聞いてるこっちが恥ずかしいです」
「オレは言いたい事を言う性質だから。んでさ、オレ思うんだけどー」
「何ですか?」
赤くなった両頬を隠そうとしているのか、その温度を下げようとしているのか確認しようとしているのか、
両手を当てた七美が憮然として問い掛ける。
「さっき七美が言ってた、この地球が“新族”のモノじゃないってヤツさ」
「え?」
全く予想外の科白に、七美の顔から熱が一気に引いた。
「いや、七美はそう言ってたけど…。オレはさ、やっぱりこの世界の覇者は“新族”じゃねーかなって思ったんだよ。
だって今の………この世界の創造者、だろ? やっぱ。悪い事ばっかりでもさ」
苦笑しての科白。
その声にからかう意志はなく、真剣そのものだった。
「………それでも、九里さんは、この世界が好きなんでしょう?」
「多分、な」
小さく同意した科白に、七美は小さな笑みを浮かべる。
「九里さん、今、幸せですか?」
「は?」
思わず間抜けな声を上げた。
「幸せですよね? だから、この世界が好きなの。………結局、そんなものじゃないかな。自分が幸せならそれでいいの」
「………七美も、そうなのか?」
「勿論です。違うと思ってました? 誰かのため、何て、自己満足のためでしょう? そうなる事で、嫌な思いをしたくないから。
だから、必至で頑張るんです。私だって、ヒトだから」
くすり、と笑う。
「九里さんは?」
「オレ……は、正直、よくわかんねーかな…。何か急に哲学的に難しい話になったみたいで。オレ、そういう話振ったかな〜とか」
「そうですか」
クスクスと、七美は愉しそうに笑って。
「それなら、少し、寄り道して帰るのを提案します」
「は?」
「多分、九里さんも納得出来ると思うから。答えも、見つかると思います」
「え、ええ?」
返事もロクに出来ないまま、腕をがっしり掴まれて、ぐいっと行くよう促される。
「よ、寄り道って、どこに…?」
ふわりと浮かび上がった七美に向かって、自分の意志とは関係ないに地から離れた足に若干動揺しつつ、問い掛ける。
「勿論、東京タワーです」
満面の笑みで答えが返った。
それにいったい何を見せるつもりなのかと、唖然とした顔のまま、哮之は引かれるがままにその身を任せた。
東京タワー、特別展望台、―――――の、上。
「風通しがいいですね、これだけ高さがあると」
長い髪を風に靡かせるようにして七美がしみじみと呟く。
「確かに、な。………これで空気が澄んでりゃ最高なんだがなぁ」
「そうですね」
愉しそうに笑いながら、七美が頷く。
へたり込むように腰を降ろしている哮之の隣に、ちょこんと七美は腰を降ろした。
「それで、こんなトコまで連行して、見せたかったものは? オレが納得して、答えまで見つけちゃうと思ったモノは?」
「今、九里さんが見てるものです」
さらりと返答があった。
「……………と、ゆーと。東京?」
「そうですね」
頷いて、じっと真剣な眼差しで街を見下ろした。
「この、東京。今なんか、まさにぴったりです」
「何に?」
同じようにして視線を周囲へと走らせた哮之が、七美の瞳の先を探りながら問い掛ける。
「さっきの質問の答えに」
双眸を細めて、右手で眼下に広がるその全てを、指し示した。
「“旧族”の攻撃で、壊滅状態。今は死んでいるけれど、始まりは日の出とともに。……この街は、すぐに、動き始める。
きっと、時をそう待たずに、いつもと同じ日常を、ね」
視線を哮之へと戻してから儚げな笑みを浮かべる。
「元通りになるけれど、完全に同じにはならず、とても脆いのは変わりない。これが、“新族”が自然を捨てて造った世界。
これが、“人族”が他の全ての一族から奪ったもので造った世界。
でも…―――――結局、自然には、勝てない。人間は」
笑みを消して、無表情になった顔が哮之を見つめた。
「つまり……ええと、この地球は、結局、地球自身のモノ、って事か?」
「そう。………人が、“コ族”の内の1つであった頃は、自然と共存して暮していたから。この地球は、そうした者達全てのモノだから、
人のモノでもあった。でも、それは、………“シ族”と“コ族”、その歴史が終わった、あの日までの話だけどね」
その科白に、哮之は立ち上がると、再度、食い入るようにして眼下の街並みを見下ろした。
目に付くのは、瓦礫の山ばかり。
「………確かに自然と共存はしてねーな」
溜息を吐き出すような一言。
頷くしかない現実が、目の前にある。
もう2度と戻る事の出来ない現実。
だからこそ“旧族”は、全てを壊して無に還そうと、ゼロの状態にして、やり直そうとしたのだ。いずれ来るであろう、
緑の世界を信じて。
大地に溢れる緑を、取り戻すために。
「何か、オレのやってた事って…。この地球の役に立ってたんかな…? 自信はあったんだけどな……今、ない」
「九里さんは、大地の声が聞こえるんでしょう?」
「……あ、ああ。一応、は。ただ、しっかりした声じゃなくて、端的なメッセージというか、感触というか……」
「それで十分だと思う。これまではそれに答えてたんでしょう? ダメだったら、何かしらあった筈だよ、その事に対して。
でも、それがなかったのなら、心配いらない。自信持って、自分の信じる道を進めばいい」
毅然とした口調で断言してから、にぱっと笑った。いつもの七美の笑い方、
対象を説得させるのにありえないほど絶対的効果を持つ、微笑み。
「そ、かな…」
例に埋もれず納得させられる哮之。
「そうです」
「んじゃ、そういう事にしとくか」
こくりと満足げに七美が頷いた。
「………に、しても。随分と派手に荒れたなぁ」
ぐるりと見える範囲を見渡して、苦笑。
「何かに似てると思いませんか?」
「……何が?」
「この東京が」
さらりと答えて立ち上がると、タワーの周りを一回りするように歩いて行く。遠ざかって行く七美の背中を眺めながら、
哮之は頭を抱え込んだ。
いったい何に似てるというのだろう。
視線を眼下の街並みに戻して、見つめる。
所々を残して、崩れ落ちたビル群。
ニュース報道が大変そうだな、などと関係ない思考が脳裏を過ぎり、哮之は頭を振った。
そうじゃないだろうと自身を叱咤した途端、これと似た光景をどこかで見た事があったと思い付く。
「………どこだっけ?」
小さく呟いた。
TVで見たわけじゃない、今、こうして感じているこの気持ちも、その時、ともにあった。
記憶にはあるが、よくわからない。
崩れた所と、そうでない所。
すぐに直せるが、同じようにしてまた、崩れる。
とても、脆い。
「あ」
ふいに、記憶の糸が繋がった。
「わかりました?」
ひょいっと哮之の頭上から逆さまに顔を出して問い掛ける。急に視界に現れた七美――しかも逆首だし――に、
びくぅっと全身反応して、思わず半歩後ずさった。
「………そこまで驚かなくてもいいと思うんですけど」
前屈で顔は逆さまになったままで、自覚ゼロの呟き。
「それで、九里さん。わかりました?」
くるりとうまく回転すると、哮之に目線を合わせて宙を漂う。
「ああ。……砂、だろ? 砂浜でやった事あ………ほんっとーにガキの頃にな」
ガキ、を強調した哮之に、七美はきょとんとした顔を返し、
「強調しなくても、今でもやってるとは思いませんけれど……。でも、正解です」
クスクス笑いながら、哮之に倣うようにして隣へと移動する。
「一生懸命、砂でお城を造っても、波に持っていかれちゃうの。それと一緒。
人間は自然の力を少し借りて一見丈夫そうな街を造ったけど、本物の自然の前には、無力で、脆く崩れ去る。
………でも、また、造る」
街を見下ろして、溜息交じりに呟いた。
「いつか……諦める時が来るだろうけれどね」
苦笑いで哮之を見つめる。
その科白の意味する所は、この世界の終末。―――――人の滅ぶ時。
「大丈夫だろ、生き物はしぶといからな」
人間、とは言わなかった。言えなかった。
目の前にいる七美は、その大元は、“神族”なのだ。
人の言い方をするなら、神様、なのだからヘタな慰めなど不要。
「それでね、九里さん。だから…」
そこで俯く。
「“新族”が“旧族”を退けて、打ち滅ぼしてまで手に入れたこの世界は…」
この、世界は。
神でさえ、存在価値を見失わせるこの世界は。
すっ、七美は顔を上げた。
「―――永遠に等しい“時”の中で生まれた、“砂の世界”。“新族”という名の砂浜に築かれた、“帝国”」
視線を隣にいる哮之へと向けて、軽く潤ませた瞳で見つめ、
「だから、きっと………。この世界は、“砂城の帝国”」
呟いて七美は瞼を伏せる。
その頬を、溢れた涙が一滴、流れ落ちた。
前へ
目次へ戻る
あとがき